再び列車に乗ってアルルからアヴィニョンまで20分。アヴィニョン中央駅を出るとすぐに城壁が待ち構えている。この城壁を越えてまっすぐ北に向う大通りを進んでいけば目的地に辿り着く。目的地とはローマ教皇庁のことである。ローマ教皇はカトリックを教会統べる長,神の代理人であり,その所在地は当然ローマのはずである。その教皇が 14世紀の一時,ローマを離れこのアヴィニョンに移った。これは滞在ではない,一種のの拉致である。歴史的には「教皇のバビロン捕囚(アヴィニョン捕囚)」とよばれる。この間,ローマ教皇はアヴィニョン教皇だったわけだ。
14世紀はイタリアでルネサンスが花開いた時代だが,同時に十字軍の後遺症が残った時代でもある。十字軍は総じてキリスト教側の敗北に終わったのだが,それはつまりカトリック教会の権威の失墜でもあった。対して権力を増大させつつあったのが王権だった。当時のフランス王フィリップ4世は教会財産に手をつけようとする。教皇権が絶大であった時代には考えられないことである。
ローマ教皇ボニファティウス8世はフィリップ4世に対して伝家の宝刀「破門」を使って対抗するわけだが,返り討ちにあう。フィリップ4世はイタリアに軍を派遣,ボニファティウスは故郷のアナーニに逃げ込むが捕らえられ,そのショックで死んでしまう。アナーニ事件である。11世紀の「カノッサの屈辱」と比較せよ。あのとき屈辱を受けたのは皇帝のほうであった。破門を受けた皇帝ハインリッヒは,教皇に許しを請うため教皇グレゴリウスの足に口付けをしたというではないか。
アナーニ事件によって王権と教皇権の力関係ははっきりした。ボニファティウスのあとしばらくして教皇に選出されたクレメンス5世はフィリップ4世の後援によって登位し,リヨンで戴冠式がおこなわれた。教皇はその後ローマに帰ることなく,アヴィニョンに留まった。そして教皇庁そのものもアヴィニョンに移されることになる。こうして7代約70年の間,教皇はフランス王の監視下に置かれた。これを古代,バビロニアのユダヤ人捕囚(「バビロン捕囚」)になぞらえて,「教皇のバビロン捕囚」とよんでいる。