ヴェルダン駅から,ドゥオモン要塞とそれに隣接する納骨堂に向う。駅を出たところに止まっていたたった一台のタクシーは,私とは別の車両にのっていた婦人に先を越された。戻ってくる次のタクシーを待つべきか・・・。今とはちがって日曜のカトリックの国の小さな町,次のタクシーがいつくるのか知れたものではない。ならば歩いていってみよう。ミシュランの旅行ガイドの地図とドゥオモン納骨堂の写真だけが頼りだった。
と歩を進めたのが間違いだった。ムーズ川を渡り,山へと向う。意気揚々と歩き始めたが,山へ山へと向う道は次第に急になってくる。完全に山に入ると明るさも薄れる。さらに小雨は降ってくる。あとどのくらい歩けば着くのか,行けども,行けどもその気配はない。手元の小さな地図ではこれだけ短いではないか,というのは私がよくやる間違いである。待つくらいなら歩く。その結果,ひたすら歩くことになる。今日中にメッスまで戻ってパリに向わなければならない。いくらでも列車があるわけではない。最終が17時。
かなり不安に駆られながら,どの時点で戻る決心をするかと考えていると,そこへ救いの手が差し伸べられた。雨に打たれながら,一人歩いている姿を見かねだのだろうか,一台の車が止まった。「どこへ向っているのか」と片言の英語で尋ねられた。「ドゥオモン」と答えると,乗りなさいと手招きしてくれた。海外で知らない人の車に乗り込む不安はあったが,そうはいっておれないのでここは思い切ってお願いすることにした。車内の老夫婦も気持ちよく迎えてくれた。山中に開けたところが見えたと思うと,そこには無数の墓標が整然と並んでいた。ドゥオモン納骨堂の白い建物がその奥にそびえている。10分足らずで目的地に到着。
ここにはヴェルダンで戦死したフランス・ドイツ両軍の兵士たちが眠っている。墓標は1つとして列を乱すものはなく,姿勢よく並んでいる。一人一人生年月日と死亡年月日が刻まれていて,その多くは1916年である。遺体の身元がはっきりとしたものはまだよい。砲撃によって識別不能となった遺骨は,納骨堂にはごちゃまぜに積み上げられている。いまでもこの辺りでは,土の中から100年前の白骨がみつかることがあるという。
近くにドゥオモンの要塞がある。現在は博物館も併設され,この辺りを訪れる旅行者も増えているようであるが,私が訪れたときは人っ子一人いない野原であった。納骨堂の中にはいくらか人がいたが,おそらくは戦死者につながる親族だろう。旅行者と思わしき人物は1人もいなかったはずである。彼らの手にカメラはなかったからである。納骨堂の中には食堂があった。冷えた体を温めるためスープを注文。さて長居もしておれない。時刻は午後3時,何があってもメッス行きの5時の列車に乗らなければならない。となると手段は1つ。ヒッチハイクである。少しでも駅に近づくため,歩きながらときどき通る車に手を挙げることにした。車は以外と早くつかまった。今度は若いカップルが乗っていた。「La gare(駅)」。と片言のフランス語で話しかける。運転していた若い男性は英語で乗るように答える。以外とこの国ではヒッチハイクはよくあることなのではないか。いざというときの手段として使えそうな気がした。
車内で彼らは「なぜこんなところを歩いているのか?」と不思議そうに尋ねてきた。そりゃー不思議である。なんたって私は日本人である。めったにこんなところで出会える種族ではない。「墓をみにきた」というと女性の方は「cemetery」の意味がわからなかったようで,連れ合いに聞いている。ドゥオモンの施設ことだとわかるとさらに二人とも不思議そうであった。「墓地に興味あるのか?」確かに変な趣味である。「墓ではなく戦争だ。」「日本で歴史を教えている」と話すと納得した様子であった。
やはり10分そこそこで駅に到着。あまりに早く着きすぎて,閑散としたヴェルダン駅で逆に時間をもてあますことになった。もしヴェルダンを訪れることがあっても決して歩こうなどと思わないことだ。きっと現在では公共交通機関も発達しているのでそれを利用することをお勧めする。のちのち測ってみると駅からドゥオモンまで片道10kmほどであった。歩くと二時間はかかるところであった。
メッスに着いたのは6時過ぎ,ここから急行に乗ってパリ東駅へと向った。