平将門の首塚
東京駅から大手門に,途中平将門の首塚を訪ねる。939年,関八州(関東八ヶ国)を束ね,自らを「新皇」と名乗り,朝廷に反旗を翻した平将門の首塚。将門の本拠は茨城県猿島(さしま)であったが,藤原秀郷(俵藤太)らによって打ち取られると,その首は京都で晒されたのち,怨霊となってこの地に飛来したという。以後,この地を侵すものあれば祟りとなって仇をなし,関東を鎮守する地霊として祀られるようになった。
写真は2014年当時のもの。ビル街の隙間にひっそりと建っていたが,現在は三井物産本社が入るOtemachi Oneの玄関に堂々と祀られており,怨霊感が薄れて個人的には残念な景色になっている。江戸時代には屈指の幕臣土井,堀田,酒井家が屋敷を構え,明治以降は旧大蔵省の敷地となっていた。大蔵大臣河田烈(いさお)書の碑があるのもその因縁である。
関東八州
律令制の昔,全国は60余りの国に分けられ,各国にはその統治のため中央から国司が派遣された。その長官を「守(かみ)」という。関東には8ヶ国あり,武蔵,相模,上野,下野,上総,下総,安房,常陸であり,その総称を関東八州という。9世紀初頭,このうち上総(かずさ),上野(こうずけ),常陸(ひたち)の三国は,京の親王の経費を賄うため親王任国となる。つまり親王が国司の地位に就く。ただし親王であるからして,辺境の国にわざわざ赴くわけにもいかず,その代理人が介(すけ),つまり次官の地位で国司の任にあたる。彼らはそれぞれ上総介(かずさのすけ),上野介(こうずけのすけ),常陸介(ひたちのすけ)とよばれた。介の働きによって親王たちは収入だけを得る。この仕組みは「遥任(ようにん)」とよばれ,のちのち上級貴族たちのやり口にもなった。守や介などの地方官職は室町・戦国期を経て,有名無実になるが,かの織田信長は上総介を自称したことでよく知られる。その前は上総守を称したが,上総守は親王の名誉職であったため,自ら介に改めて降格させる。さすがの信長も…というところであったのだろうか。
信長はまた本姓「平」を名乗った。もともと「源」・「平」といった姓は臣籍に降下した皇族に与えられた姓で,戦国期の大名などは,定かでない自らの出自に権威をもたせようと勝手に名門姓を名乗った。結果的に信長の正式名はこうなる。「織田上総介平朝臣(たいらのあそん)信長」。
さて信長から遡ること700年,宇多天皇の御代にも上総介の平がいた。桓武帝の孫(あるいは曾孫)である高望(たかもち)王が「平」姓を賜る。この平高望が上総介の地位を得て,関東に下る。職務に高い望をもって臨んだかどうかはわからないが,遥か都の親王のために励んだのではないことだけは確かなようである。任期が過ぎても帰京せず,上総のみならず下総(しもうさ),常陸の未開地を開拓。現在の千葉と茨城の大部分を支配下に置き,その権益を守るために自警団を結成した。当時「兵(つわもの)」とよばれた彼らは土着してやがて「武士」となる。
高望は長男の良望(国香とも)や次男の良兼に常陸国の村々を任せ,三男良将には下総国の村を与える。この良将の子が将門である。将門の乱はまもなく平定されるが,中央政権からの独立は関東に根付いた武士の悲願となった。その悲願はやがて源頼朝によって成就されるが,この間源氏が関東に,平氏が西国に入れ違って勢力をもつようになった。それにはもうちょっと複雑な事情がある。ちなみにのちに朝廷の最高位に昇りつめた平清盛や鎌倉幕府の実権を握った北条一族は高望の長男良望(国香)の子孫たちである。