You ain't heard nothing yet!

ある社会科講師の旅の回想録

You ain't heard nothing yet!(お楽しみはこれからだ!)

社会科講師的東京散歩~皇居をぐるり③~

江戸城跡(皇居東御苑)

 現在,皇居東御苑として一般国民に開放されているのが,旧江戸城の本丸跡とその周辺である。大手門から入場する。

 江戸城は徳川将軍家の居城となったことはよく知られているが,築城されたのはそれよりずっと以前のことである。1457年,いわゆる応仁の乱がおこる10年も前のことで,扇谷上杉家の家臣太田道灌の手による。そののちは北条氏(後北条氏)二代:氏綱の支配下に入りその支城となった。氏綱の父:北条早雲(伊勢新九郎)は太田道灌と同世代で,戦国大名の先駆けとなった人物ともいわれる。さらにそれ以前,武蔵国のこの一帯は江戸氏という土豪が治めていたとされる。江戸氏・江戸郷のいわれは諸説あるが,私の手元にある地名語源辞典によると,アイヌ語の「岬」・「端」を意味する「etu」に由来するとある。

 北条一族はやがて関東一円を支配する大大名にのし上がった。しかしその本拠地は小田原(神奈川県)であって江戸ではなかった。1590年,この北条氏が豊臣秀吉によって滅ぼされると替わって,秀吉は徳川家康に江戸城と関八州を与えた。150万石から250万石に加増である。秀吉にしては配下最強の要注意人物を京・大阪から遠ざける狙いとともに,この加増は最大のライバルに対する最大限の配慮でもあった。一方,家康にとっては命懸けで守り抜いた三河・遠州からの国替えを命じられたという事実に過ぎず,道灌以来は荒れ野原と成り果てた江戸城を見て愕然としたに違いない。が家康は持ち前の我慢強さで臥薪嘗胆これを受ける。そして関ヶ原までの10年,次の世を打ち立てるエネルギーを蓄えた。

 家康には自身の都を鎌倉や小田原に置く選択肢もあったが,それらを選ばなかった。時代はもはや乱世ではなかった。もはや小田原や鎌倉のような要害の地は必要なかったのだ。あえていうなら日本全土の山川が家康にとって江戸防衛の要害であった。小さな領地を守るかつての戦国大名が考える規模を遥かに越えて策はめぐらされた。「次の戦が最後になる」とよんでいたに違いない。そしてその勝者となるべく健康にも十分気を付けた。

 家康は決して天才肌ではなかったが,若いころから学ぶべき生きた手本が近くにいた。彼らはまさに天才といってよい。軍略を武田信玄から,経済感覚を織田信長から,そして都市計画は秀吉から学ぶ。秀吉は築城と攻城の天才であった。大坂城と大坂の街の発展をつぶさに目の当たりにした家康は,これを手本に江戸城とその城下の大改造に着手する。結果,江戸は江戸時代を通じて政治の中心として機能し,やがて東京となって現在に至る。だが弱点も多々あった。

 教科書的にいうと江戸は「将軍のお膝元」とよばれた。当たり前すぎて,私は中学生のころ,テストでこれを「花のお江戸は八百八町」と答えてみた。子どものころに見た時代劇『銭形平次』の主題歌(舟木一夫)の歌詞で覚えたフレーズである。✕を喰らったのはいうまでもないが,一応面白半分抗議はした。「真面目に答えなさい」というのが,先生からの回答であった。今,自分が教壇に立つようになってから,子どもたちには,「分からなかったら,面白い回答を考えなさい」といっている。授業では「分かりませんは許さない」と。

「火事と喧嘩は江戸の華」とフレーズもある。江戸っ子の喧嘩っ早い威勢の良さと火事が江戸の名物であった。江戸は日本最大の人口密集地であり,当時の世界からみても人口密度が高い都市であった。だがその身分構成は実に歪で,住居面積にすると武家が6~7割と圧倒的に多く,残りは寺社と町人が半々にわけあっていた。その一方で総人口の半分は町人であったという。自然と町人は狭い空間で生活せざるを得ず,住居は長屋が多かった。一たび火災が発生すると火の広がりは速く,たちまち消化困難に陥る。

 17世紀末の元禄四年(1691),徳川将軍でいうと五代:綱吉のころ,オランダ商館付の医師ケンペルが記録した『江戸参府旅行日記』の中で,短い江戸滞在中に,立て続けに火事が起こったことを記録している。

三月十三日

 われわれが到着した四日前に四十ヵ町が焼けて,そこの四〇〇〇戸が灰塵に帰した。また今晩も,この宿から東一里半ないし二里離れた所で火災が起こったが,たった数軒を焼いただけで消しとめた,ということである。

三月十五日

 宿舎から二里離れた所で,今晩も火事があったが,大した被害はなかった。

三月十七日

 宿舎の近くで今朝また火事があるのが見えた。

三月十八日

 強い北風の吹いている夕刻,一里半あるいは一直線にはかれば一里ほど西に大火が起こり,非常に広い二五ヵ町,六〇〇軒が焼けたが,四時間後にようやく消えた。

『江戸参府旅行日記』(ケンペル著・斎藤信 訳 平凡社 東洋文庫)

 

 延焼拡大にはこの地域特有の自然現象もからんでいる。冬にはからっ風とよばれる乾燥した季節風が後押しし,台地形は消火水の確保を難しくした。「宵越しの金を持たない」というのも江戸っ子気質を表す言葉だが,そう度々火事が起こっては,財産などの残しても意味がない。そんな切ない事情も彼らにはあったのだ。8代将軍吉宗のころから火消(町火消)が本格的に組織されたが,江戸時代の火消とは放水隊ではなく,拡大を防ぐために家屋を先回りして壊して回るのが任務であった。威勢のいい話だが,これは笑い話ではない。

 江戸城の天守閣もまたその切ない事情を象徴している。早々に明暦の大火で焼失し,以後再建されることはなかった。18世紀以後の江戸時代を舞台とする時代劇でよく移される江戸城の天守は実際には存在せず,絵映りのよい姫路城を映している。(今どきはCGか)

 明暦の大火とは,1657年(四代:徳川家綱のころ),江戸の大部分を焼く尽くした大火災である。振袖火事ともいう。(同じ振袖を着た娘が3人,病死し,その供養に振袖を焼いたことが火事の原因ともいわれる。)

 さてここに保科(ほしな)正之という能臣が登場する。保科正之は2代将軍:徳川秀忠の庶子であり,つまりは3代家光の異母兄弟にあたる。徳川家綱(4代),徳川綱吉(5代)を輔弼した江戸時代屈指の政治家である。会津藩(会津松平家)初代藩主となり,その子正容(まさかた)の代に松平姓を名乗ることを許される。松平は家康の実家の姓であり,江戸時代には徳川を名乗る将軍家・御三家(御三卿)以外の親族の名字である。

 明暦の大火は江戸の街の大半を焦土と化し,江戸城もまた被害を免れなかった。保科正之は城の再建よりも城下の復興に力を注いだのである。

陽気な人柄ではなかったが,行政者である自分を転職のように心得て,私心がなかった。

司馬遼太郎の『街道をゆく(奥州白河・会津のみち)』の一文であるが,私は保科正之を評したこの爽快な一文を忘れることができず,この一文故に保科正之という人物をたいへん気に入っている。