You ain't heard nothing yet!

ある社会科講師の旅の回想録

You ain't heard nothing yet!(お楽しみはこれからだ!)

社会科講師的東京散歩~皇居をぐるり④~

旧枢密院(現皇宮警察本部庁舎)

 大手門から出て,堀に南へ。再び東御苑の方向へ目を向けると旧枢密院の庁舎が見える。枢密院は戦前,天皇の諮問機関として,大日本帝国憲法草案を審議するために設置された。枢密院議長は内閣総理大臣に次ぐ地位で,初代議長には初代内閣総理大臣を務めた伊藤博文が就いた。

旧枢密院 元皇居警察本部

 

坂下門・楠木正成像(皇居前広場)

 皇居前広場に出る。途中坂下門,楠木正成像を通って旧江戸城(皇居)を出る。坂下門は1860年1862年(文久二年)に老中安藤信正が攘夷派の水戸藩浪士による襲撃を受けた場所である。坂下門外の変と呼ばれている。

開国後,失墜した幕府の威信を取り戻すため,安藤らは朝廷との融和を図った。皇妹和宮(かずのみや)を幕府(14代家茂)に降嫁させ公武合体を推進する。これに憤慨した尊王攘夷派が決行にいたった。和宮は明治天皇の叔母にあたる。

坂下門

 皇居前広場には,14世紀に後醍醐天皇に仕えた忠臣楠木正成の銅像がある。明治時代に住友家が献納したものだというが,率直に2つの疑問が浮かぶ。まず楠木正成ら楠木氏は,姓は橘であり,出自としては悪くはなかったが河内・和泉を本拠とした一介の地方豪族である。南北朝の争乱では後醍醐天皇を扶け,南河内を中心に奮戦するが,足利尊氏に敗れ自害する。その忠義から明治時代に正一位を賜るが,江戸・東京にはまるで縁がない人物である。

 また江戸は徳川将軍家の都であった。徳川家康は,源頼朝(鎌倉幕府),足利尊氏(室町時代)に連なる源氏の末裔を称し,征夷大将軍となった。楠木正成は後醍醐天皇を正統とする南朝に仕えたが,対する足利尊氏は北朝を擁して幕府を開いた人物であり,現天皇は北朝の系譜である。この点からも現天皇が住まう東京にも馴染めそうにない。明治天皇は「南朝が正統である」と発言したのは知られる話だが・・・。

 中学の修学旅行は東京であった。観光バスを皇居前広場に止め,楠木正成像を見たあと,二重橋で記念撮影をしたのを覚えている。このときバスガイドさんに正成像について,「なぜ」の質問をしたのだが,よくわからないとのことだった。嫌な中学生だったに違いない。

 ちなみに二重橋は橋が二重という訳の分からない意味ではなく,前後二本の橋が重なって見られるから二重橋という。

※源平藤橘…日本を代表する四姓。源氏・平氏・藤原氏・橘氏を指し,天皇の子孫や外戚といった天皇家に近い一族。

 

南北朝

 1334年,後醍醐天皇は足利尊氏,新田義貞,楠木正成らの力を借りて鎌倉幕府を倒し,都(京都)で親政を復活させた。「建武の新政」とよばれたこの治世は,公家を重視したため,武家の不満を買い,足利尊氏らによって後醍醐天皇は京都を追われた。鎌倉時代後半からすでに皇統は二系統(大覚寺統・持明院統)が交互に即位する慣習となっていたが,尊氏は後醍醐天皇(大覚寺統)とは別系統(持明院統)の天皇を擁して京都で幕府を樹立(のちの室町幕府),これを北朝と呼び,後醍醐天皇は奈良の吉野で自らの皇統を存続させ,これを南朝とした。以後,北朝が南朝を吸収する形で約60年にわたる争いは決着(明徳の和約)をみたが,後の歴史学では南朝が正統とされることが多い。つまり足利尊氏は賊軍,後醍醐天皇に付いた楠木正成は官軍という評価である。ちなみに足利尊氏はの「尊」は「高」であったが,まだ蜜月時に後醍醐天皇の名「尊治(たかはる)」の一字を賜った。

 南北朝時代,南朝方の北畠親房という公卿がいた。彼は後醍醐天皇を継いだ後村上天皇の時代に『神皇正統記』という南朝を正統とする歴史哲学書を著す。この書は江戸時代,御三家の1つ水戸藩の学問(水戸学)に影響を与え,幕末には幕府の中枢にいながら,尊王攘夷の先頭に立った。先の坂下門外の変やその後の桜田門外の変を水戸藩浪士が起こした下地になっている。