You ain't heard nothing yet!

ある社会科講師の旅の回想録

You ain't heard nothing yet!(お楽しみはこれからだ!)

社会科講師的東京散歩~皇居をぐるり⑤~

旧GHQ庁舎(第一生命日比谷ファースト)

 馬場先門跡から再び城外へ出て堀沿いを日比谷方面に向かう。すぐ道沿いに帝国劇場,隣に第一生命ファーストの建物が見える。ここは1945年(昭和20年),終戦後にGHQ(連合国軍総司令部)がその庁舎として接収し,総司令官マッカーサーが占領の指揮を執った。

 

鹿鳴館跡(帝国ホテル)

 日比谷公園を右に南に歩く。通りの左手(東側)に帝国ホテルがある。このホテルに隣接して,かつて鹿鳴館があった。現在はその碑がひっそりと残っている。鹿鳴館は1883年(明治16年),外務卿井上馨(かおる)の欧化政策の一環として建設された。外国要人や外交官との社交の場として利用され,日比谷は外交の中心となった。



日比谷公園

 日比谷公園に入る。1905年(明治38年)9月,日露戦争講和条約(ポーツマス条約)締結に反対する民衆の決起集会が開かれ,暴徒化。この事件を皮切りに大正時代には日比谷公園は社会運動の拠点となった。現在はアイドルの野外ライブに人々が集う。

 

※ポーツマス条約…アメリカ大統領セオドア=ルーズベルトの仲介によって日露講和会議で結ばれた。条約でロシアから賠償金を得ることができなかったことが暴動のきっかけであった。



桜田門(霞ヶ関)

 1860年,大老井伊直弼が桜田門外において水戸藩浪士ら暗殺された。歴史上「桜田門外の変」という。安政の大獄に対する反動であった。外国との不平等条約の締結や将軍継嗣問題など数々の問題に直面した幕府は,井伊直弼を筆頭に反対する者たちを大弾圧した。これを「安政の大獄」というが,処分を受けた者に吉田松陰らがいる。「変」はクーデターを,「獄」は処罰(「牢」の意味が転じて)を指す歴史用語である。

 徳川家康に仕えた四天王の一人井伊直政は,東海道の要所近江彦根に封じられその守護を任せられた。譜代筆頭格の大名は江戸城周囲に屋敷を構えることを許される。井伊家当主は歴代掃部頭を名乗り,「掃部頭」は「かもんのかみ」と読み,古代律令制では宮中の施設管理・維持・清掃を行う官職で「頭(かみ)」はその長官。江戸時代には有名無実の官職となっていた。

 桜田門の真向かいのビルは警視庁本部庁舎。「桜田門」というと「警視庁」の隠語であることはこの立地が由来である。警視庁と向かい合う赤レンガの建物は法務省旧本館。この二つの建物を入口に日本政府の官庁街,いわゆる「霞ヶ関」である。

 

日本水準原点(国会議事堂)

 桜田門から外堀に沿って少し歩くと国会議事堂正面に出る。議事堂前庭北は彦根藩井伊家や当主井伊掃部頭の屋敷が置かれていた。現在は碑のみであるが,ここに日本水準原点が置かれている。日本の水準測量(標高)の基準点である。

 国会正面を北に折れると永田町一丁目一番地の碑を見ることができる。現在の国会議事堂は1936年(昭和11年)に建てられたもので,向かって左が衆議院,右が参議院。ただし正面から全景をみることはできない。

 国会前の通りを北に進み,憲政記念館,国会図書館をぬけると最高裁判所がある。