You ain't heard nothing yet!

ある社会科講師の旅の回想録

You ain't heard nothing yet!(お楽しみはこれからだ!)

社会科講師的東京散歩~山手線に沿って①~

神田

 神田は古書の街として知られるが,そのさらに中心地神保町は,JR山手線神田駅から西に少し離れている。私からすれば宝島のような場所であるが,いざ何か買うともなると決めきれない。欲しいものを始めからピンポイントで求めないと,宝島は抜け出せない迷宮となる。明治時代,このあたりに明治大学,専修大学,中央大学といった法律学校が次々に設立されたことがこの街を書店街へと変貌させた。

 神保町を北に,明大通りを明治大学キャンパスに入る。明治大学博物館には中々日本で目にできない貴重な展示物がある。それは刑事部門というコーナーの一画にあり,古今東西の拷問具が展示されている。「ギロチン」と「鉄の処女」がそれである。「鉄の処女」は中世ヨーロッパで使用された拷問具で,説明をするより見てもらった方がわかりやすいだろう。明治大学博物館

 

ニコライ堂の風景

 明治大学から日本大学理学部へ,その一画に東京復活大聖堂がある。通称ニコライ堂は,日本に正教会を布教したロシアの聖ニコライに因んでいる。江戸末期,ロシアとの和親条約(1855)が結ばれると函館にロシア領事館が置かれた。領事館附属の聖堂が函館に建てられる。函館ハリストス正教会,「主の復活聖堂」である。ニコライはこの聖堂の司祭に就任し,正教の伝道にあたった。このときニコライに日本語の手ほどきをしたのが新島襄であった。時代が移り,明治になってロシア大使館が東京に開設されるとその場を東京に移した。

 現在,正教会は一ヶ国一組織の原則となっている。ロシアの正教会はロシア正教会,ブルガリアならブルガリア正教会のごとく,ニコライ堂(東京復活大聖堂)はあくまでも日本正教会に属している。故にロシア正教ではなく独立した正教会である。設計はイギリス人建築家ジョサイア=コンドルによるもので,明治政府のいわゆる「お雇い外国人」であった。鹿鳴館も彼の手によるものであり,東京駅を設計した辰野金吾は彼の弟子である。玉ねぎ頭の丸屋根(ドーム)は,ビザンチン様式というもので,正教会の教会によくみられる建築様式である。

 

 夏目漱石の『それから』にはニコライ堂の復活祭の様子が語られる場面がある。

 

御祭が夜の十二時を相図に,世の中の寝鎮まる頃を見計らって始まる。参詣人が長い廊下を廻って本堂へ帰って来ると,何時の間にか幾千本の蝋燭が一度に点いている。法衣を着た坊主が行列して向うを通るときに,黒い影が,無地の壁へ非常に大きく映る。

 日露開戦時,大使館員たちが日本を去る中,ニコライは日本に留まった。日露戦争が1904年,『それから』の連載は1909年であり,ニコライは1912年に日本で死去していることから,『それから』の中に出てくる「法衣を着た坊主の行列」の中に,ニコライの姿があったはずである。

 

 

 漱石が『それから』を発表した同じ頃,日露戦争の反戦詩『君死にたまふことなかれ』で知られる歌人与謝野晶子が夫鉄幹と共にこの近くで生活をしていた。ニコライ堂とは本郷通りを挟んで向かい側であった。与謝野晶子の歌には度々,ニコライ堂が登場する。

戸あくればニコライの壁わが閨(ねや)に白く入りくる朝ぼらけかな

わが住むは醜き都雨ふればニコライの塔泥に泳げり

(『春泥集』鉄幹晶子全集5:東京勉誠出版)

 

 ここでの生活は2年に満たなかったが,晶子にとって躁鬱入り乱れる壮絶な時期であった。夫鉄幹は手塩にかけた雑誌『明星』が廃刊となり,自身も極度のスランプに陥る。また二人は子宝に恵まれていたというから,そんな夫を支えながらの子育てにも愛情を注ぐ。前の歌(「白壁」「あさぼらけ」)からは心地よさが,後の歌から陰鬱さが読み取れる。

 また歌集『佐保姫』にはこんな歌もある。 

隣り住む南蛮寺の鐘の音に涙のおつる春の夕暮れ 

 (『佐保姫』鉄幹晶子全集4:東京勉誠出版)

 う~ん,やっぱり辛かったんだろうな。

 

 ニコライ堂は,本郷通りと紅梅坂に面して今でこそ隣接するビルの影に慎ましく明治の面影を残すが,駿河台という江戸期には火消の火の見櫓があった見晴らしのよい丘の上にそびえるように建てられた。教会の鐘楼からは宮城が見おろせたという。ニコライ堂が当時の人々に時に奇異の目で見られ,時には親しみを込めて眺められたのはやはりその特徴的な玉ねぎドームと鐘楼だったのだろう。ドームの高さは35m。残っている当時の写真では鐘楼の方が高く見える。実際ドームより3mほど高かったという。現在は鐘楼の方がやや低い。というのも関東大震災で被災したのち再建されたものであるからだ。これも晶子の歌である。

 ニコライの塔のかけらにわれ倚りて見る東京の焦土(やけつち)の色 

 (『瑠璃光』与謝野晶子歌集:岩波文庫)

 

 

 内部には美しい「イコン」が飾られている。イコンもまた正教会特有の「聖画」であり,イエスやマリアや使徒,聖人たちを題材に伝統的な技法によって描かれている。これらのイコンはロシアに発注され聖堂に納められた。当時,日本にはイコンを描く職人がいなかったからであった。イコンは「絵画」であるが,いわゆる「芸術」ではないという。見る者によって印象が変わっては困るからである。故に作画するのは芸術家ではなく,伝統的技法を習得した技術者となる。絵にサインは入れない。信徒でない限り,日本人にはなじみのないものであるが,これについては,いずれ書くこともあろう。かつてニコライ堂の司祭をお務めになった高橋保行氏の『イコンのこころ』(春秋社)に詳説されているので,興味のある方にお薦めする。ただ著者が司祭だけに美術書というより,宗教書に近く,丸屋根を「玉ねぎ頭」だとか,イコンを「美しい」だとかといっているとしかられそうな内容である。この本の冒頭のはしがき,「イコンのこころ」に寄せて,と題した宗教評論家:鷲津繁男氏(本人も正教徒)の一文。

ギリシャ正教は祈りの宗教である。

 

 日本初のイコン画師となるため,ニコライの支援を受けてロシアにまで留学した女性がいた。山下りん,生まれは幕末1857年。出身は常州笠間藩,現在の茨城県である。山下りんの描いたイコンも複数ニコライ堂にあったらしいが,これらもまた関東大震災で消失した。今は東北,北海道に多く残されている。函館の聖ハリストス大聖堂が訪れやすい。

 山下りんは伝統的イコンに懐疑的で,留学中は西洋(西ヨーロッパ)の画風の影響を受け,自ら技術者ではなく,芸術家であることを望んだようである。先の『イコンのこころ』の中でも高橋氏は,山下りんが日本初のイコン画師であることを評価しつつも,その前置きとして日本最初の女性洋風画家だと紹介している点,やや皮肉めいている。山下りんが残したイコンは300以上あるといわれるが,すべてイコンの伝統に則り,無署名であった。