聖橋
ニコライ堂を北に,JR中央線お茶の水駅。この辺りの水が茶の湯に適したことから「御茶の水」とよばれたが,目の前の現在の神田川がその名に相応しいかは明言をさける。ただこの辺りが私にとって別の意味で感極まる場所であった。それは『神田川』と『檸檬』であるが,御存知だろうか。南こうせつ(かぐや姫)の『神田川』は昭和の名曲として今でも耳にする不朽の名作であるが,同じほど私にとって名曲なのがさだまさしの『檸檬』だ。
梶井基次郎の小説『檸檬』からインスピレーションを得たというこの曲は小説と同じく「得体の知れない不吉な塊」に悩まされる。不安・憂鬱・不機嫌・怒りといってもよい。手榴弾にも似た形,強烈な酸味から,レモンはそれらを一気に吹飛ばしてくれるものとして象徴的に現れる。
目の前に聖橋(ひじりばし)がある。聖橋から撮ったお茶の水駅の風景がこれ。実に下手くそ。本当は『檸檬』のシングルジャケットの風景を撮りたかったんだけれども,神田川の河川工事が余計。待っていると快速電車(歌詞一番)も各駅停車(歌詞二番)も来ないものです。
或の日湯島聖堂の白い石の階段に腰かけて
君は陽溜まりの中へ盗んだ檸檬細い手でかざす
それを暫くみつめた後で
きれいねと云った後で齧る
指のすきまから蒼い空に
金糸雀(カナリア)色の風が舞う
喰べかけの檸檬聖橋から放る
快速電車の赤い色がそれとすれ違う
川面に波紋の拡がり数えたあと
小さな溜息混じりに振り返り
捨て去る時には こうして出来るだけ
遠くへ投げ上げるものよ
君はスクランブル交差点斜めに渡り
乍ら不意に涙ぐんで
まるでこの町は青春達の姥捨山みたいだという
ねェほらそこにもここにも
かつて使い棄てられた愛が落ちてる
時の流れという名の鳩が舞い下りて
それをついばんでいる
喰べかけの夢を聖橋 から放る
各駅停車の檸檬色がそれをかみくだく
二人の波紋の拡がり数えたあと
小さな溜息混じりに振り返り
消え去る時には こうしてあっけなく
静かに堕ちてゆくものよ
『檸檬』さだまさし
さだまさしのアルバムの中では『風見鶏』と『私花集』が最も好きだった。学生時代に聖橋に立っていたら,きっとレモンの1つや2つ川に投げ込んでいたかも知れないなぁ。よく見れば,ここにもあそこにもレモンを握りしめた学生たちがいたのかもしれない。
もう1つ。太宰治の『斜陽』にも聖橋が登場する。主人公かず子が友人と別れた回想シーン。
あれは、十二年前の冬だった。
「あなたは、更級(さらしな)日記の少女なのね。もう、何を言っても仕方が無い」
そう言って、私から離れて行ったお友達。あのお友達に、あの時、私はレニンの本を読まないで返したのだ。
「読んだ?」
「ごめんね。読まなかったの」
ニコライ堂の見える橋の上だった。
《中略》
私たちは、しばらく黙って、冬の川を見下(みおろ)していた。
「ご無事で。もし、これが永遠の別れなら、永遠に、ご無事で。バイロン」
と言い、それから、そのバイロンの詩句を原文で口早に誦(しょう)して、私のからだを軽く抱いた。
私は恥ずかしく、
「ごめんなさいね」
と小声でわびて、お茶の水駅のほうに歩いて、振り向いてみると、そのお友達は、やはり橋の上に立ったまま、動かないで、じっと私を見つめていた。
『斜陽』太宰治
曇天の空を背景にコンクリートの橋と深く濁った川,聖橋には冬が似合う。『神田川』・『檸檬』・『斜陽』,これが夏の晴れた真昼の空なら台無しである。悲しくも捨てきれずにいる青春を懐かしむには,鈍色の風景がちょうどよい。
湯島聖堂
さて聖橋を渡るとそこは湯島聖堂である。聖橋とはニコライ堂と湯島聖堂を結ぶことからこの名がある。当然湯島聖堂の方が古い。江戸幕府第5代徳川綱吉によるもので17世紀末に建立された孔子廟である。
江戸幕府を開いた徳川家康には,3人の精神的支柱がいた。天海僧正,金地院崇伝,そして林羅山である。林羅山は儒学者,正確には朱子学者であった。幕藩体制を敷くにあたって身分秩序を重視するその道徳が羅山によって正当化された。そして羅山以降も幕府を学問の面が支え,林家の私塾も湯島聖堂に移転することになった。
その100年後の寛政期,老中松平定信のいわゆる寛政の改革において,寛政異学の禁が発せられた。異学とは朱子学以外の学問を指し,幕府の学問所では朱子学以外の学問を禁じた。こうして朱子学が幕府の官学となり,林家の聖堂学問所は昌平坂学問所と改名される。「昌平」とは孔子の出身地,古代中国の魯国の村の名である。
孔子を祀る大成殿の門の前には「杏壇」の文字が書かれている。孔子が学問を講じた壇は杏の木に囲まれていたことから転じて学問所を意味する。受験シーズンには合格祈願の学生で賑わうというが,私が訪れたことは晩秋ということもあってひっそりとしていた。歴史には興味はあるが,私の孔子と儒教観は非常に低いとだけいっておく。