御徒町~上野 本郷界隈
御徒町から東大がある本郷界隈を歩く。まずこの「御徒町」が難読である。「おかちまち」と読む。「かち」は「徒士」,「徒歩」であり,騎兵に対する歩兵,つまり下級武士の溜まり場であったことが由来である。山手線御徒町駅で降りて,上野公園に向かうと不忍池(しのばずいけ)が見えてくる。蓮の池とは聞いていたが,水面は一面蓮に覆われていた。
不忍池に沿って西に。その果ての地名は文字通り「池之端」。池沿いの道と並行する西に一本入った通りに旧岩崎邸庭園がある。明治時代,三菱財閥初代岩崎弥太郎が居を構えた。現在残る洋館は三代久弥の頃のもので,設計はやはりジョサイア=コンドルによる。
岩崎邸北側に沿って無縁坂を昇る。突き当りは東京大学である。不忍池から無縁坂は森鴎外の『雁』の舞台であり,東大生の主人公(?)岡田の散歩コースであった。さだまさしの『無縁坂』(曲)もこの坂を題材としているという。若い頃,さだまさしが好きだった私だが,この曲にはあまり感情移入できなかった。このコースを歩きたいと思ったのはやはり『雁』(森鴎外)であった。私は学生時代,東京にはほとんど縁が無かった。友人の幾人かはこの街に何かを求めて進学した。彼らは何を得て,今この地でどうしているのだろう。もし自分が東京の大学に通っていたらと岡田さながら物思いに耽ってこの坂を歩いた。
無縁坂の突き当り,そこにある「鉄門」からこっそり東大に入る。東大に裏口入学したと思うと何だかにやける。目の前は東大医学部附属病院であり,その関連施設が立ち並んでいる。東大医学部を俗に「鉄門」と呼ぶのは,難しさも掛けてのことであろう。だから私は「こっそり」入ったのである。
医学部を通り抜けて「赤門」に立ち寄る。現在の東大が,江戸時代の加賀藩邸跡地(前田家)であったことはよく知られる。「赤門」はその名残りである。その赤門から銀杏並木を抜けると安田講堂。ちょうど私が訪ねたころ,銀杏は綺麗に色づいていた。安田講堂占拠事件(1969)で知られる安田講堂は,学生運動のシンボル的建造物として語られるが,正面入口の壁の焦げ跡だけが当時の激しい攻防を生々しく残している。
安田講堂の裏手に回り,工学部棟を抜けて弥生門から暗闇坂に出る。そこは弥生町とよばれる地区で,この辺りから土器が発見され,弥生土器と命名された。言問(こととい)通り沿いに,その記念碑が建っている。
そのまま言問通りに沿って東に歩く。20分ぐらいのところに寛永寺がある。門には東叡山とある。開祖は天海大僧正。徳川家康・秀忠,さらに100歳を超えてなお三代目の家光に仕えたという怪僧である。「東叡山」とは東の比叡山の意味。比叡山延暦寺が京の都の鬼門(北東)を封じたように,天台僧である天海は江戸城の鬼門を霊的に守護しようとした。それが寛永寺である。江戸城の南にあった増上寺とともに徳川将軍家の菩提寺となっている。
寛永寺を出て,南には東京国立博物館やルコルビュジエ設計の西洋美術館など博物館地区に入る。この2つは社会科教師なら一度は見学しておくべき博物館である。私は街歩きとは別日を設定して後日ゆっくりと見学することにした。そのまま上野駅に向かうが,一応近くまで来たので西郷隆盛像を見ておく。源義経,豊臣秀吉,西郷隆盛,どーもファンが多いらしいが,私はあまりよく思っていない。