「サイゴンに行く。」この都市をつい「サイゴン」と呼んでしまうのは,やはりベトナム戦争の記憶からであろうか。とはいえ私にとってのベトナム戦争は,現実の戦争・戦闘についてのことではない。戦争が終結した1975年といえば,私はまだ小学生にもならないやっと物心ついたころである。私の中のベトナムは,中学・高校・大学のころに見たベトナム戦争の映画といくつかの小説の中のベトナムであった。
「サイゴンに行く。」こう言うと,最近はどこのことを言っているのか,相手にはあまり通じないようである。ベトナムに行ったことがある人に話をしても通じないことがある。だから決まって後から言い直さなければならない。「ホーチミンのことです。」
ホーチミンは,もともと都市名ではない。人名である。生名はグエン=シン=クン,後にグエン=アイ=クォックを名乗る。グエンは漢字で書くと「阮」,ベトナム人に最も多い姓である。アイ=クォックも漢字であてると「愛国」となる。文字通り,ベトナム独立・建国の立役者であり革命家,その過程においてベトナム人の精神的支柱であった。日本軍のインドシナ進駐後はホー=チ=ミンを名乗った。漢字であてると「胡志明」となる。「胡(ホー)」もまた「阮」同様ベトナム人に多い姓である。
「志明」という名が示すようにホーには,同時期の共産主義者のような影をもたなかった。例えばヨシフ・ジュガシヴィリといったグルジア(現ジョージア)生まれの革命家はのちに「スターリン」と名乗り,敵対する人物の大粛清を行った。「スターリン」とは「鉄の人」という意味である。ホーのその高潔な人柄から「ホーおじさん」と,今でも親しみを込めて国民から尊敬されている。
ホー=チ=ミンはベトナム戦争の終結を待たずに1969年に亡くなるが,その後も激しい戦闘はつづく,1975年,南ベトナムのサイゴン陥落(ベトナム側からはサイゴン解放)をもって戦争は終わる。北ベトナム軍の最終攻撃作戦は「ホーチミン作戦」と名付けられた。翌年,サイゴン市はホーチミン市と改名された。ただサイゴンの名は今でも日常の広い場面で用いられている。市のターミナル駅はサイゴン駅であるし,タンソンニャット国際空港のコードは「SGN」のままである。