You ain't heard nothing yet!

ある社会科講師の旅の回想録

You ain't heard nothing yet!(お楽しみはこれからだ!)

社会主義国の信仰の自由~ベトナム紀行⑯~

 ビンタイ市場に近いチャータム教会は,カトリック教会である。クリーム色の聖堂の尖塔が特徴的であるが,赤い門柱と瓦屋根の門,聖堂の前のマリア像を囲う屋根,これらは何とも中国風でミスマッチである。門には「天主堂」という文字が書かれている。ここでようやく漢字が目の前に現れた。南ベトナム時代のクーデターでゴ=ディン=ジェムが降伏したのがここである。

 チャータム教会から東に10分ほどのところに天后宮がある。華人の守り神:媽祖を祭る寺院であるが,寺院だからといって仏教寺院と解釈すると誤解である。「天」・「宮」という語から察するに中国の民間信仰,殊に道教の寺院といってよい。道教の寺院は「道観」と特に表現するが,中国では日本の神仏混淆と同様,仏教・道教はともに深く結びついているので,華人寺というに留めておく。門に「館会城穂」と書かれているのは,右から読んで「穂城会館」。「穂城」とは中国の広東省広州の別称である。広東は華人最大の出身地の1つである。

 媽祖は航海の神である。中国南部の沿岸地域で信仰を集めているが,華人にはその南部の出身者が多い。天后宮は建物の指の先からつま先まで中華建築である。屋根の上の細かい彫刻は,中国の伝統的衣装を身につけた華人たちの賑わいを再現しているのだろうか。いたるところに吉兆を象徴する幻獣,仙人の彫刻もみられる。久米邦武の『米欧回覧実記』の中にもこの廟についての記述がある。

市街ニテ貿易生理ヲナスハ支那人多シ,府中ニミルヘキモノハ,祠廟ナリ,其屋造ハ,欧州屋造ノ高キカ如クナラサレトモ,瓦字瓷檐(しえん),石ヲ甃(しゅう)シ磚(かわら)ヲ畳ミ,或ハ竜ヲ刻ミテ飾りトナス……穂城会館トテ,天后宮聖母ノ廟アリ,左ニ関帝ヲ祠リ,右ニ財帛星君ヲ祠ル,支那人ノ建タルモノニテ,造営ハ精工ヲ極ム,……

 

 寺の中庭には,これも中国らしい巨大な鼎(三脚)の香炉があり,参拝に来た人々が次々に長い線香を立てていく。奥にもその奥にも大小の香炉が備えられている。香炉に立てられた線香があまりにも多いため,寺の内部は煙たくてしかたがない。そんな中でも手を合わせる信仰心の強いお年寄りたちの厳粛な姿がある。柱に副えつけられた扇風機が上向きに回っているのは,唯一煙の逃げ道である上空に風を送っているつもりなのだろうが,その大雑把さがおかしくてたまらない。

 中庭の塀の上に鯉と龍の彫刻があり,その間に「禹門」と赤字で書かれている。「禹(う)」とは中国の伝説の王で,黄河の治水に努めた伝説で知られる。禹は黄河の上流に三段の滝(水門)を築き,鯉がこの滝(門)を昇りきると龍と化すという有名な故事を表している。難関を乗り越えて立身出世することを願っているのだ。

 天后宮をさらに東に少しいくと,チョロン・モスクというイスラム寺院がある。ベトナムにもムスリム(イスラム教徒)はわずかにいる。モスクにいる人たちをみる限り,アラブ人ではなくベトナム人である。観光客にも開放しているようで,英語で「モスクに入る前に靴をぬぐように」と注意書きされていた。

 ベトナムは社会主義国ではあるが,宗教の自由は認められている。南ベトナム時代にはゴ=ディン=ジェム大統領がカトリック優遇政策をおこない,仏教徒が弾圧されるということがおこったが,共産化された北ベトナムとその後社会主義に統一された労働党政権のもとでカンボジアや中国のような大々的な宗教弾圧がおこなわれたことはない。それどころか国定宗教として6つの宗教が認められている。(どこの国でもそうであるように小規模な騒動はあるだろう)仏教,カトリック,プロテスタント,イスラム教に加え,仏教を土台とした新興宗教カオダイ教とホアハオ教である。残念ながら滞在中にカオダイ教とホアハオ教に関連したものに出会うことはなく,わたしにとってそれらは謎のままに終わった。