ベンタイン市場は先に訪れたビンタイ市場と名前はよく似ているがホーチミン市の中心寄りにあるマーケットである。中華街にあるビンタイ市場とは違ってこちらはどちらかというと西洋風の建築である。
マーケットに入る前に雲行きが怪しくなってきた。ポツポツと雨が降ってきたかと思うと,中に入るともう雨音は轟音を立てている。午後お決まりのスコール。覆われた屋根のすき間から雨が漏れる。あちこちの店の店員がバケツをひっくり返したような雨を,バケツを置いて受け止める。
私たちが突入した北側は食品街で,もう店じまいしているところもあったが,食堂は大賑わいであった。何か冷たいものでも飲もうかと席を探すが中々みつからない。プラスチック製の椅子に腰かけた人々でいっぱいである。この街のあちこちの食堂,出店,道端でみかけるプラスチック製の椅子。色は赤か青が多いのだが,みな一様に低い。日本では風呂場で使う椅子の高さに近い。ベトナムだけでなく東南アジアでは共通して低い位置に腰掛けているのだが,総じて背が低いからなのだろうか,それとも少しでも暑さから身を遠ざけているのだろうか。やっと空いた椅子に2人で腰かけて,ベトナム名物「チェー」を注文する。写真入りのメニューであったので注文はしやすかった。低いのは椅子だけでなく,テーブルの高さもまた椅子に合わせて低かった。
チェーはミックスジュースとあんみつとかき氷を合わせたような飲み物で,中身はそれらすべてが入っているようなものと考えてよいが,中には得体の知れない寒天のようなものも混ざっている。すべてが「~のようなもの」である。味もまたそのすべてのようなものである。深いグラスに閉じ込められているので,底からかき混ぜて飲む(食べる?)。庶民食堂で出される氷には若干抵抗があったが,庶民食堂でなければ,庶民の味「チェー」を味わうことはできない。途上国では氷にきれいな水が使われているとは限らないので注意したい。
マーケットを覆う1つの天井を共有して一坪ショップがびっしりと並んでいる。それにしても米の種類が多いことには驚く。ベトナム語で書かれているのでどれがどんな種かは読み取れなかった。衣類のコーナーでは面白いものをみた。色とりどり,柄も様々なマクスである。最初私はこれをその色柄から女性のブラジャーだと勘違いした。まるでブラジャーのカップのようであるが,おかしい。カップが2つではなく1つなのである。あれがマスクであると理解としたのは,こののちバイクに乗る女性の顔をよくよく見てみたときであった。排気ガス対策のマスクであったのだ。
衣類などの日用品売り場と食品売り場とは階を分けているわけではないので,建物中にニョクマムの香りが充満している。「ベトナムの香りはすべてニョクマム」といったのは,作家の開高健(『ベトナム戦記』)であった。街にはそれぞれ独特の匂いがある。現地にいってみないと味わえないものの1つが,その街に漂う香りだ。ベトナムならそれがニョクマムである。
ニョクマムはベトナムのナショナルソースである。魚に塩を加えて発酵させた魚醤の一種である。たいていのベトナム料理にはこれが使われている。発酵食品なので鼻をつく匂いであることは想像つくが,実際に嗅いでみないことにはその独特さはわからないだろう。「よく癖になる味(匂い)」という言葉を耳にするが,それはたいていの場合,最初は気持ちの良いものではない。やんわりと貶す日本語の優しさである。数をこなすうちにそれこそ「癖になる」のである。日本の糠漬けやヨーロッパのチーズもそれであろう。