強烈なスコールはいつのまにか止んでいた。マーケットを出て,西に歩く。スリ・タンディ・ユッタ・パニというとても覚えられそうにないヒンドゥー寺院があるので行ってみる。中にはだれでも入れる。ガネーシャ(象),ハヌマーン(猿)などヒンドゥーらしい神々の絵の数々。明るいが,静かでひんやりと涼しく,周辺から隔離された空間である。観光客はおろか,住民らしき人もほとんどいない。わずかに見かけた人はあきらかなインド系にはみえない。
ヒンドゥー教はベトナム政府公認の6つの宗教には含まれない。6つとは仏,カトリック,プロテスタント,イスラム,カオダイ,ホアハオである。カトリックとプロテスタントはキリスト教で,カオダイとホアハオは新興宗教であり,これらへのベトナム人の入信は歴史的に浅い。イスラム教の成立は7世紀のことであるから,イスラム教がこの地に入ってきたのはそれよりも遅れる。6つの宗教のうち,ベトナムでもっとも早くから信仰されていたのは仏教ということになる。
ベトナムには近現代以前にも南北では異なる国が存在した。北部は中国の文化的・政治的影響を受け,その支配下に置かれたこともある一方,南部には早くからインド文化の影響を受けた国が存在し,メコン川流域を中心に独自に発展した。「ベトナムの歴史は北属南進」といわれる(『物語 ヴェトナムの歴史』小倉貞夫著 中公新書)。中国の宋の時代(10世紀)になると北ベトナムは中国から独立し,南方への領土拡大を図る。
北ベトナムの独立前,すでにメコンデルタ(下流)には1世紀からクメール(カンボジア)人の国が存在した。中国の記録では「扶南(国)」と字があてられている。ヒンドゥーの神々を信仰し,公文書にはサンスクリット語が用いられた。オケオという港ではこの国の繁栄を物語る出土品が発掘されている。扶南はクメール人の国であるためカンボジアの歴史として語られるが,メコン川河口付近にあるオケオは現在のベトナムに位置している。遺跡からはインドや中国の工芸品だけでなく,ギリシャの装飾品,ローマ皇帝:マルクス=アウレリウスの金貨も見つかっている。ホーチミン歴史博物館には,これらの出土品が展示されている。
2世紀末,ベトナムに第三の勢力が登場する。チャンパとよばれたその国は,時代や時期によって中国では「林邑」,「環王」,「占城」という漢字があてられた。ベトナム中部から南部にかけて19世紀まで存在した。「占城米」とは,この地域原産の早稲種の米で,10世紀,中国の宋の時代に中国へ持ち込まれた。雨が少ない痩せた土地でもよく育つため,長江流域では二期作が可能になり,生産力を飛躍的に高めた。日本にも鎌倉時代に伝えられ,当時の生産力の向上につながった。
このチャンパ王国もまたインド・ヒンドゥー文化を受容する。同じヒンドゥー国家であった隣国カンボジアのアンコール朝とは幾度となく交戦し,アンコール遺跡にはその戦闘場面のレリーフが残っている。ベトナム中部のダナン,フエ,ホイアンには,中国風の街並みが観光客を引き付けるが,郊外にあるミーソン遺跡はヒンドゥー教の聖地としてチャンパ時代の面影を残している。
北ベトナムが中国の支配から抜け出すと北ベトナムの南進が始まり,チャンパ王国もまたその勢いに飲まれていく。それとともにベトナムのインド文明は中国文明に圧され,徐々にその姿を失っていった。さらにメコンデルタを含めて現在のベトナムの姿に近くなったのは19世紀にフランスの植民地(仏領インドシナ)となってからのことである。
現在チャンパの子孫たち(チャム族)はベトナム南部に多く居住しており,その約40%がヒンドゥー教であるという。ベトナムの歴史的発展においてその一翼を担ったチャンパの文化を,公的に認めていないのはなぜだろう。カーストといった身分制の教えにその原因があるのだろうか。