クチに行く。ホーチミン市から北西に約50㎞,車で約1時間のところにその場所はある。ベトナム戦争時,南ベトナム民族解放戦線(ベトコン)の拠点があった場所だ。解放戦線の地下トンネルが今も残されている。ホーチミンの旅行会社のオプショナルツアーに申し込むことができ,ガイド付きで案内してくれる。私たちはドンコイ通りにあるTNKトラベルJAPANというところでお願いした。一人19$であった。
当日ガイドがマジェスティックまで車で迎えにきてくれた。途中,一人旅をしている若者(男性)をピックアップして日本人は3人。目的地を同じくする他の外国人たちとともに一台のバスに乗り込んで出発。ガイドの男性は日本語がペラペラではあるが,テレビでみるような中国人が話すような訛り。どこか昔のジャッキー・チェンの映画に必ずといっていいほど登場した脇役,将金を思い出すような顔つき。ベトナム人ではあまりみかけないが,背が高くやや太り気味の体格。白いシャツにカーキ色のズボン。40歳代であろう。南ベトナムの出身であるという。南ベトナムというという答え方から彼が生まれたころはまだ南北が分裂していたころだと推測する。家族の話まで進むと,奥さんは北の出身であるらしい。つまり義理の父は共産化したころの北ベトナム人だということだ。複雑ではなかったかと訊くと,「そりゃもうたいへんでしたよ」と答えたが,それ以上は深くは訪ねなかった。
道中はほぼ平坦といってよい。ホーチミン市を過ぎれば,民家と水田だけの景色である。水田の耕作用であろうか,水牛もときどきみかける。我々が目指すのは,クチの村からさらに北側にあるクチトンネルというところである。
トンネルのある場所に近づくにつれて,ブッシュ(低木)が目立つようになってきた。雑多な茂みもあれば,秩序だった間隔で並んでいる場所もある。天然ゴムのプランテーション(農園)である。天然ゴムはゴムの木の樹液を採取して製造する。もとは南アメリカの熱帯が原産であったが,不出の掟を破ってイギリス人がこっそりマレーシアに持ち込んだことで東南アジア各地に大農園が拡大した。20世紀,自動車の普及によってその需要が爆発的に伸び,東南アジアのゴム農園主は莫大な富を築き上げた。映画『インドシナ』(1992)でカトリーヌ=ドヌーヴが演じたのもベトナムでゴム農園を経営する大富豪であった。ゴムの木は年中高温多雨の気候を好む。南北に長いベトナムは北部と南部では若干気候が異なり,北部は冬に乾燥する。ゴムの栽培には南部が適しており,ゴム利権の恩恵に預かる人々は南部に多かった。かつての南ベトナム(ベトナム共和国)は,そのような人々に支えられていた。現在でも天然ゴムの生産のほとんどは東南アジアの国で占められており,タイ,インドネシアに次いでベトナムは世界第三位である。
クチトンネルはベン・サック(Ben Suc)という村に近く,ベン・サック,ベン・カト(Ben Cat),ベン・コー(Ben Co)あたりを頂点とする地域は鉄の三角形(トライアングル)とよばれ,インドシナ戦争時はベトミンの,ベトナム戦争ではベトコンの拠点となり,難攻不落の一帯として外国勢力から恐れられた。1967年1月,この地域の掃討作戦がアメリカ軍により決行された。シーダーフォール作戦,ベトナム戦争中最大の地上作戦であった。米軍はベトコンを掃討するだけでなく,ベトコンを普通の村人から分離しようとした。ベトコンを支える社会基盤そのものを破壊しようとしたのである。住民は強制移住させられ,全地域に枯葉剤が散布された。建物が破壊され,ブルドーザーが土地を平らにした。以後この地域で発見されたベトナム人はすべてベトコンとみなされ,殺害することが許可されたという悪魔的作戦である。このときの様子はジョナサン=シェル(Jonathan Schell)のルポ『Village of Ben Suc』(翻訳なし)に詳しい。
乾坤一擲の大作戦にも関わらず,アメリカ軍はこのクチトンネルとベトコン支援のシステムを破壊することはできなかった。解放戦線は総延長200㎞にも及ぶ地下トンネルを使ってゲリラ戦を展開した。アリの巣のように掘られたトンネルは今も入ることができるが,ベトナム人の体型に合わせて狭く,たとえ一人でも体勢を低く保たねば通ることができない。太っている私など途中でつかえそうになった。アメリカ人がこのトンネルに入ってもロクな攻撃はできず,出口も彼らにはわからない。トンネルの周囲には鉄杭,釘,竹を使ったブービートラップが張り巡らされ,トンネル内には武器庫はもちろん,食堂,寝室,医療施設まで備わっていた。展示物の中には兵士とも思えない一般人らしき服装をした人形がある。トラップを造ったり,爆弾の製造・解体のシーンを再現している。解体作業に失敗したあとの悲惨な写真も飾られている。