ホー=チ=ミン廟の東にあるタンロン遺跡へと向かう。北ベトナムの歴史の大半,その中心であった場所である。まだ中国とベトナムの国境があいまいであった古代,このあたりには古越とよばれる人々が暮らしていた。「越」はベトナムをあらわす漢字であるが,古代ベトナム人という程度の呼び名である。ベトナム人の多数民族はキン族とよばれるが,別に「ベト族」という呼び方もある。古越の末裔であり,これが「ベトナム」の語源である。紀元前3世紀,中国で秦の始皇帝による統一が成ると,その支配下に入った。以後,中国の文明の影響下で,ベトナムの文化が形成されていく。ベトナム料理が東南アジアの中でもっとも口に合うと感じる日本人は私だけでないはず。ベトナム料理は中国料理を基本としているからであろう。
秦が滅び,群雄割拠の時代が再び始まると,秦の元官僚によって中国南部に南越国が成立する。この国の領土はベトナム北部にまで及んだ。「南越」,「Nam Viet」,つまり「ベトナム(Viet Nam)」の原型である。「ベトナム」は「V」の文字を使うことから,日本では特に歴史・政治用語で「ヴェトナム」と表記するのが一般的であったが,いつのころからであろうか,政府関係・歴史教科書などでも「ベトナム」表記に統一された。
次の漢の時代,紀元前2世紀の武帝が南越国を滅ぼすと,ベトナム北部は唐の時代まで中国王朝の一部として従属した。前にベトナムの歴史を「北属南進」という言葉で紹介したが,「北属」の時代である。
7世紀の唐の時代,朝廷は辺境警備と周辺民族の統治のため6つの「都護府」を置く。ベトナム北部,ここハノイには安南都護府が置かれた。8世紀に遣唐使として唐に渡り,玄宗のもとで仕えた阿倍仲麻呂が都護に任じられハノイに在住している。「天の原 ふりさけみれば 春日なる 三笠の山に 出でし月かも」という仲麻呂の有名な望郷の歌があるが,ハノイで生活したのはすでに帰国を断念した晩年のことであった。当時,日本の都は奈良の平城京にあったが,あまりにも故郷とかけ離れたこの亜熱帯のハノイの風景をどんな気持ちで毎日眺めながら政務をこなしていたのか。安南都護府が置かれたのも,このタンロン遺跡ではないかといわれている。
タンロン遺跡,タンロンは漢字で「昇龍」と書く。ハノイの古称である。「昇龍」に続いて「東京」もハノイの古称である。日本語では音読み(漢音)で「トウケイ」,ベトナム語では「トンキン」となる。「トンキン湾事件」で知られる「トンキン湾」として現在も使用されている。
11世紀,中国は宋の時代,ベトナムにベトナム人の統一国家が生まれる。李太祖(李公蘊)による創建であるため,李朝とよばれている。国号は「大越」であった。李太祖は昇龍,つまりハノイを都とし,この遺跡に皇城を築いた。こののち正史では陳・黎(レイ)・西山・阮と王朝が続くが,阮朝のときに都がフエに移されるまで,ハノイ(昇龍・東京)はベトナムの政治の中心であった。
遺跡の入口を抜けるとまず目にするのが端門であり,おそらくこの遺跡の最大の遺構であろう。ハノイ最大の歴史的遺産であるにも関わらず,御上り観光客もなく,内部は閑散としている。中国風の城壁と楼閣,五つの門は奥の宮殿へ通じる門で,一番大きな中央の門は皇帝専用であった。楼閣まで城壁を登ることができるが,特に何もない。門を抜けると博物館やお土産屋さんがあるが,観光客はおろか職員もおらず,店にはおばさんが1人いるきりであった。博物館には例によって冷房設備は完備されていない。
宮殿(敬天殿)の跡地には二対の竜の彫刻が施された階段だけが残されている。ただしあまり迫力はない。どちらかというと日本の神社の狛犬のようにかわいらしい。現在階段を昇った先に建つのはフランス統治時代のフランス軍司令部である。
遺跡をさらに北側奥に進むと「D67」という建物がある。ベトナム戦争時代に北ベトナムの作戦司令部が置かれた場所で,会議場のテーブルには当時の主要メンバーのネームプレートが置かれている。グエン=サップ司令官の名前ももちろんある。
歴史的遺跡であるがベトナム戦争時の展示が一番興味深く,隣接して軍事博物館があるからだろうか,敷地には戦争当時の戦闘機が置かれていた。北ベトナム空軍が使用したソ連製のミグ21には少々興奮した。ベトナム諸王朝の遺構とミグ21戦闘機,考えようによっては倍お得かもしれない。
タンロン遺跡を出て,一旦ホテルへ帰る。途中あの線路通りにもう一度立ち寄りたかった。線路脇ではあいかわらずタンクトップ姿のおじさんたちがタバコをふかしながら将棋にいそしんでいる。観光客のことはまるで気にしない。明日も明後日も,そして10年後も同じ光景が見られるだろう。