You ain't heard nothing yet!

ある社会科講師の旅の回想録

You ain't heard nothing yet!(お楽しみはこれからだ!)

フッガー家~ドイツからイタリアへ⑦~

 南ドイツのような内陸地が中世ヨーロッパにおいて大きな商業圏を形成できた背景にはイタリアの商業交易都市ヴェネチアの存在があった。ドイツは当時最大の香料,とくに胡椒の大消費地の1つであった。中でもヴェネチアは東方貿易で得た胡椒などの物産をドイツに供給するのに恵まれた位置にあった。当時ライバルであったジェノバやマルセイユに比べレパントとよばれた東地中海各地に対しても近距離にあったし,その一方で南ドイツの商業都市とはブレンネル峠(イタリア・オーストリア国境)を通して短距離で結びついていた。
 胡椒だけではないアウグスブルクにはファスチャン織りとよばれる綿布工業が発達しており,これを中部ヨーロッパに供給していた。この原綿は陸路ヴェネチアからもたらされたものであった。
 ドイツ商業都市にとってもヴェネチアは大の得意先であった。綿布だけでなくアウグスブルクは麻織物工業もさかんであり,ヴェネチアはリネンの重要な市場であった。さらにヴェネチアは大量のチロルの銀と北ドイツの銅を必要としていた。貨幣を鋳造するためである。中世においてヴェネチアの通貨はヨーロッパでもっとも信用のある通貨であった。その品質を保つためにドイツの鉱業が不可欠となっていた。
 アウグスブルクなどのドイツ商人はヴェネチアの一等地であるリアルト橋のたもとに商館を構えることを許される。そしてこの織布産業と鉱山を背景にアウグスブルクでフッガー家がおこる。(「Venice」 Frederic C.Lane)


 フッガー家の出自もまた織工であった。14世紀,アウグスブルクを拠とし,チロル地方の銀山の経営権を独占し,15世紀には金融業で財を成した。チロル地方はイタリアとオーストリアにまたがるアルプス東部の地方で,先のブレンネル峠もここにある。
 フッガー家の資金は単に交易目的にだけ投資されたわけではなかった。チロルの領主が神聖ローマ皇帝であったことから皇帝との結びつきを強める。15世紀,当時の皇帝はハプスブルク家のマクシミリアン1世である。次代,その孫のカール5世(カルロス1世)はスペインを「太陽の沈まない国」に仕立て上げた人物である。
 アウグスブルク中央駅を東に突き当りまで進んだ南北の大通りはマクシミリアン通りと名づけられている。マクシミリアン通りを南に歩くとまもなくフッガー家の邸宅(フッガーハウス)がみえてくる。等間隔に並んだ一階のアーチと2・3階の窓枠。均整のとれた気持ちよい外観はルネサンス様式である。フッガー家は当時の富豪の例にもれず,芸術家のパトロンとなり,彼らを保護育成した。15世紀末から16世紀はルネサンスの最盛期でもある。イタリアではフッガー家に比されるメディチが台頭していた。
 富を湯水のように使い,奢侈にふけっていただけではない。フッガー家は,社会福祉にも功績を残している。世界最古の社会福祉集合住宅をこの街に建てている。私は訪れることはできなかったが,フッガーライ(フツケライ)とよばれるこの施設は現在博物館となっているらしいので興味ある人は訪れてみるとよい。

手元に残っていた唯一のアウグスブルクの写真(駅) 1993