フッガー家の融資先は神聖ローマ皇帝だけでない。ローマ教皇庁も大のお得意様であった。16世紀初頭は宗教改革の時代でもある。ご当地ルターがローマ教皇庁の発行する贖宥状(免罪符)に対して「95ヶ条の意見書」を出したのが1517年のことであった。
贖宥状とは天国行きの片道切符である。「啓典の民」の宗教では罪を犯した人間は地獄に落ちる。最後の審判の日に天国行きか地獄行きかがいいわたされる。それまでに罪人は罪をつぐなわなければならない。キリスト教はこの罪の償い方を簡単にしてしまうことで信者をこつこつと獲得していった。「告白」という方法である。キリスト教徒が日曜日に教会にいくのはこの告白のためである。
告白というと「好き・嫌い」という甘く切ない告白を思いがちだが,ここでは犯した罪の告白というわけである。内容によっては「私は人を殺しました」というのもありである。告白相手はもちろん神であるが,実際には神父や牧師ということになり,告白された神父や牧師には告白内容の守秘義務が認められている。告白を済ませれば罪は許され,天国行きが約束されるのだ。もちろん宗派によってこの「告白」が意味する重要性や形式は異なる。
16世紀初頭のカトリックではこのほとんど伝家の宝刀とでもいうべき「告白」に伝家の宝刀を重ねた最終兵器を持ち出した。それが贖宥状であった。信者はこれを購入するだけで「全贖宥」が約束されるのである。すべてが許される。当時の人間としては飛びつくのも当たり前である。
販売動機もまた神聖な理由からではなかった。よくいわれるのがイタリアのサンピエトロ寺院をはじめ各地の教会の修築・増築費を確保するためであった。そしてこの贖宥状販売を請負い,その販売金額の半分をふところに納めていたのがフッガー家。当時まともな聖職者がいたとしたら,ローマ教皇庁の仕業こそ悪のなせる業であり,フッガー家はアウグスブルク版「ヴェニスの商人」といったところだろう。
ルターにはじまる宗教改革は,はじめは宗教論争であった。ルター自身が聖職者であり,「95ヶ条の意見書」が当時の一般人が読解することができないラテン語で書かれていたことからもそうである。しかし時代は純粋に教義の対立が先鋭化した中世ではなかった。結局,宗教改革はどちらについたほうが儲かるか,国益にかなうか,要は損得勘定むき出しにヨーロッパ各国,領邦が対立したできごとだった。
ルターが拳を振り上げてから約40年後の1555年,アウグスブルクでカトリックとルター派の和平が成立する。歴史上アウグスブルクの宗教和議と呼ばれる出来事である。ここアウグスブルクで開催された帝国議会において,ルター派がはじめて容認された。ただしまだ個人には信仰の自由は認められず,あくまでも領邦君主にカトリック,ルター派の選択権が与えられただけである。またこのことはカトリックの皇帝とルター派を選んだ諸侯との対立が決定的になり,地方分権が加速する。
マクシミリアン通りの南端では珍しい光景がみられる。聖ウルリヒ・アフラ教会。遠目からは1つの教会だが,近づくと2つの教会が重なっている。もともとあったカトリックの聖ウルリヒ教会の手前にルター派の聖アフラ教会が建てられた。アウグスブルクの和議を記念してのことらしい。両方とも耳慣れない聖人の名をとっているが,聖アフラの方が古いらしい。まだキリスト教がローマ帝国で公認されていない4世紀はじめの殉教者らしいから,ディオクレティアヌス帝の迫害にあった人物だろう。313年,次のコンスタンティヌス帝によってキリスト教はローマの宗教の1つとして公認される。
アウグスブルクはドイツロマンティック街道が立ちあがった街である。私は知らないが,新旧両教会が隣接しているところは他にあるのだろうか?礼拝,ミサ,年中行事,社会活動はどのようにおこなわれているのだろうか?運営体は別々なのだろうか?そもそも揉め事はおこらないのだろうか?仲良く建っているところをみるロマンティックといえなくもないが,なんのなんのロマンティックどころか,両宗派のリアリステッィクな面の表れではないだろうか?
さてフッガー家であるが,16世紀を境にその勢力は衰えていく。融資先大手の神聖ローマ帝国の財政破綻,宗教改革によるローマ教皇庁の衰退,新大陸から大量の銀の流入などが重なり衰退は決定的となった。それでも貴族・銀行家として家系は続いてきたが,18世紀,あの一族が台頭してくるとヨーロッパ最大の財閥としての地位も転落する。その一族とはユダヤ系ロスチャイルド家であった。