You ain't heard nothing yet!

ある社会科講師の旅の回想録

You ain't heard nothing yet!(お楽しみはこれからだ!)

ブルクとシュロス~ドイツからイタリアへ⑩~

 歩道は迷うことなくホーエンシュヴァンガウ城の麓まで続く。ここに観光客用の駐車場があり,お土産物屋,食堂などが軒を並べている。ノイシュヴァンシュタインへの山道の入り口だ。
 ドイツ語では城を表す言葉が2つある。1つは「ブルク(burg)」である。「ブルク」は主に防衛上の拠点である。日本では古代これを「城」と書いて「き」と読んだ。茨城,宮城の「城」も「き」であり,ここに大和の朝廷の防衛拠点があったためである。(ただし「茨城」は「き」,「宮城」は「ぎ」と濁音になるのは日本語の発音の特徴からである)鎌倉時代の蒙古襲来に備えて,博多湾に築いた石塁(石築地)も「城(き)」である。日本であれ,ヨーロッパであれ「城」は堅牢をもってよしとするのは同じである。
 もう1つは「シュロス(schloss)」という。「ブルク」も「シュロス」も日本語では「城(しろ・じょう)」と訳されるが,こちらは「館(たち)」という方が近い。つまり住居スペースとして建てられたものを意味している。
 日本の中世,御家人や守護(大名)が任地に住居兼職場として「館」を築いた。館の主は「御館(おやかた)様」とよばれた。戦国時代のような物騒な世の中になると「館」は主の館(やかた)ではなく,攻撃目標となる。必然「館」には強固な防衛力が必要になり,「城(き)」と「館(たち)」は融合していく。防衛上高い場所に建てられるようになると「山城(やまじろ)」である。
 ある程度時代が進むと,各地に割拠していた小大名は淘汰されていき,織田信長や毛利元就など地方単位で国がまとまり始める。こうなると主の方も土地だけでなくかかえる兵の方も規模も大きくなる。兵站の面から堅牢な山城に籠もっていたのでは支えきれなくなってきた。こうして城(しろ)は徐々に山から下りてきて,交通・流通の便がよい平地へと移っていった。鉄砲の導入もそれを助ける。一発撃って次発まで時のかかる当時の鉄砲は,それを抱えて前線を進む攻撃よりも城を楯にした防御に向いていた。
 鉄砲を有効活用した,世界史史上においても重要な戦とされる長篠の戦い(1575)も,信長に対した武田勢からみると攻城戦であったといえるだろう。「信長公記」によると対決前,信長は武田勢の見えない位置に斜面を利用した即席の土塁,馬防柵を築かせた。武田勢がこれに気づかない位置に陣取ったことを信長は「幸運」だとし,敵 を殲滅する策を練った。馬防柵は武田の騎馬隊の突撃を防ぐだけでなく,火縄銃の長い筒を固定させるためのバイポット(二脚)の役割もあった。


 信長が野戦地に出現させた即席の城は野戦築城とよばれ,日本ではこれまでなかった戦術であった。孫子の兵書「謀攻篇」に城を攻めるは最悪の手であると記されているように城攻めは愚策であった。長篠の戦いの70年ほど前,ヨーロッパで繰り広げられていたイタリア戦争において,ゴンザロ=フェルナンデスというスペインの将軍が野戦築城を用いてフランス兵を撃退したという記録がある。信長はヨーロッパからの宣教師を保護していたから,孫子の兵法とともにこのイタリアでの戦記を興味深く聞いていたのかもしれない。


 昔よくいわれた長篠の戦いは鉄砲隊を組織しての戦いが注目されるが,鉄砲は信長にとって決定打ではなく,敵方を攻城戦に誘い込んだところにこの戦の肝はある。相手が勝頼でなく信玄ならこの戦いにのっただろうか?
 日本では居城と要塞とがごっちゃになっていったが,ドイツでは城の名前をみると,それがどちらであるか明白だということだ。ライン川でみた城はほとんどが「ブルク」であり,ホーエンシュヴァンガウ(Schloss Hohenschwangau)やノイシュヴァンシュタイン(Schloss Neuschwanstein)は「シュロス」である。