ミュンヘンに行く。アウグスブルクからミュンヘンまでは鉄道で1時間以内に着く。ミュンヘン中央駅はターミナル駅,つまり終着駅である。ミュンヘンはベルリン,ハンブルクに次ぐドイツ第3の都市で,バイエルン州の州都であるだけあって,さすがに駅構内の広さはこれまでのドイツの駅を圧倒している。
しかし案外,この都市について知っていることといえばそれほど多くない。一般にはまずビールであろうか?それにヨーロッパサッカーの強豪チーム:バイエルン=ミュンヘンの本拠地が思い浮かぶ。そして歴史的にはナチスである。
私が住んでいる大阪に「ニューミュンヘン」という有名なビアホールの老舗がある。1958年創業だから昭和33年,店名に「ニュー」とつくことやその看板のフォントからしても未だに昭和を感じる懐かしいお店である。ここはサッポロの生ビールをあつかう店で,私も若い頃何度か足を運んだことがあり,名物のから揚げやソーセージをつまんだ。
当時,ビアホールの名前に使うぐらいだから「ミュンヘン」といえば日本人にとってビールの代名詞であった。「ミュンヘン サッポロ ミルウォーキー」,サッポロビールが美味いビールの産地として使っていたキャッチコピーでもあった。
せっかくミュンヘンにまで来たのだからビールの一杯でもというのが人情というもの。時刻はまだ午前10時,朝からビールを飲んであちこち訪ねて回れるほどアルコールに強くもなかったが,駅からほど遠くない旧市街の古いビアホールを訪ねて回ることにした。そしてそれはナチスの歴史を辿ることにもなる。
第一次世界大戦後,ミュンヘンの鉄道員たちの間でナチス(ナチ党)は産声を上げた。当時はドイツ労働者党と名乗り,反共産主義・反ユダヤ主義の旗を揚げ,ナショナリズムを標榜する右翼団体であった。結党がおこなわれたのはフュルステンフェルト・ホーフというホテルとも居酒屋ともいわれているが,おそらくどちらも兼ねていたところだろう。ヒトラーの『わが闘争』にも出てこないので詳しいことは私にはわからない。
ミュンヘン中央駅,南側のバイアー通りを東に進むとカールスプラッツに出る。「プラッツ」はドイツ語で広場である。そこからカールス門をくぐって旧市街に入る。旧市街の大通りは東南東へ伸びているのでそのまま進むとマリエンプラッツがみえてくる。広場の中央にはマリア像が立っているため「聖母(マリア)の広場」というわけである。ネオゴシック様式の新市庁舎はミュンヘン最大の観光名所で,ドイツ最大といわれる仕掛け時計があり,11時と12時にはこの仕掛けが動くらいしい。せっかくなので11時の公演をみていくことにした。
人形たちの踊りをみたあと,大通りをさらに進むと旧市街の出口イーザル門に突き当たる。このあたりのタール(Tal)通りにシュテルンエッカーブロイという酒場でドイツ労働者党の集会があったらしく,ヒトラーはこの集会に政府のスパイとしてもぐりこんだ。残念ながらシュテルンエッカーブロイの正確な場所はつきとめられなかった。ちなみに「ブロイ」とは「醸造所」の意味で,「酒場」のことである。
この集会の討論会においてヒトラーは一目を置かれるようになる。ヒトラー自身の言葉によると「わたしが話をしているとは,人々は驚いたような顔で聞いていた。」(『わが闘争』上 第九章)らしい。ヒトラーは次回の党委員会にも出席を求められ,その集会はヘレン通りの「アルテ・ローゼンバート」という食堂であった。
ヘレン通りはタール通りと平行に二本北側にある通りである。この食堂も現在は残っていなかった。ヒトラーはこの委員会でドイツ労働者党への入党を決心したらしい。『わが闘争』によると党員番号は7であったと書かれているが,訳注によるとこれはどうやら虚偽であるらしい。
ヘレン通りを道なりに北西に上り,少し複雑だが東に進路を取りブロイハウス通りを探す。首尾よく通りを見つけたらそのまま北東に歩く。最初の辻に出たら右手にホフブロイハウスが見える。世界一有名なビアホールといえばホフブロイである。そのHとBをつなげたマークは日本でも有名であり,ミュンヘン観光名所の1つとして現在も現役である。ホフブロイはなんと国立の醸造会社である。歴史は400年を越える。この店はその醸造所でつくったビールの直営店。私がミュンヘンを歩いていてもっとも人が集まっている場所であった。
この歴史的なビアホールでドイツ労働者党は国家社会主義ドイツ労働者党(ナチ党・ナチス)へと変貌を遂げた。そしてハーケンクロイツがはためいた。ことごとくドイツでは大事なことはビールなしには語れないらしい。イギリス人は貴族たちが紅茶を飲みながら国の大事を決定し,自由の国フランスの啓蒙思想家はカフェで革命の拳を振り上げ,日本の大名は茶室で陰謀をめぐらす。
いわゆるビアホール・プッチの舞台もその名の通り,ビアホールから始まる。「プッチ」などというといかにも子どもっぽいかわいらしい響きだが,歴史的にはミュンヘン一揆とよばれるナチスのクーデター(ドイツ語でプッチ)である。
1923年11月8日,このクーデターはビュルガーブロイケラーというビアホールからはじまった。ビュルガーブロイケラーは旧市街の東,イーザル川をわたったローゼンハイマー通りにあった。現在ヒルトン・ミュンヘン・シティ・ホテルの近く,ミュンヘン・フィルハーモニー管弦楽団のガスタイク文化センターがある。クーデター決行部隊である突撃隊はビールジョッキ片手にヒトラーの登場を待っていた。
ヒトラーはこのクーデターでミュンヘンを制圧し,ムッソリーニのローマ進軍にならって,ベルリン進軍を果たして共和国を牛耳るつもりでいた。のちにヒトラーの側近となるヘルマン=ゲーリング,ルドルフ=ヘス,ハインリヒ=ヒムラーらもその中にいた。
がクーデターは失敗に終わる。ナチスは非合法となり活動停止,ヒトラーらは捕らえられた。1年間の監獄生活の中で,ヒトラーは『わが闘争』を執筆する。そしてこの次は合法的手段によって政権を掌握する。その手段の1つが『わが闘争』であった。この本の最後にヒトラーはミュンヘン一揆について語らないことの理由に「将来のために何の有益さも期待していない」としている。戦後,この書物はドイツ国内で発禁処分となった。
1925年,釈放されたヒトラーがナチスを再結成したのもビュルガーブロイケラーであったといわれる。1939年,爆弾テロがこの店でおこった。ヒトラー暗殺が目的であったが,ヒトラー不在のまま決行された。ビュルガーブロイケラーの跡地,ガスタイク文化センターの広場にはホルンのオブジェの前に実行犯であったゲオルク・エルザーの記念碑盤が埋め込まれている。エルザーはミュンヘン郊外のダッハウ収容所で処刑された。
(『髑髏の結社 SSの歴史(上)』ハインツ・ヘーネ著 講談社学術文庫)
時間的にもホフブロイハウスで昼食をとることにした。せっかくだから生ビールを一杯だけとも考えたが,辺りで飲んでいる人がもっているジョッキが異様にデカイ。1ℓジョッキだそうだ。それではこれからの旅程に差し支える。しかたがないのでレモネードとソーセージの盛り合わせを注文した。
ホフブロイハウスには面白い逸話がある。この店に来てレモンソーダを頼んだ客がいた。店員はそれを断ったそうだが,時の主人だけがそのオーダーを受けたらしい。レモネードを注文した私は当然のように店員にからかわれたが,それも仕方なく,ちゃんと注文どおりレモネードが出されてホッとした。
焼きたてのソーセージに副えられていたのは,これもドイツ名物ザワークラウト。キャベツの漬物である。これはどうも私の口にはあわず,ドイツではじめて食べ残しを出すことになった。ソーセージはもちろん文句なし。