You ain't heard nothing yet!

ある社会科講師の旅の回想録

You ain't heard nothing yet!(お楽しみはこれからだ!)

リヒテンシュタイン公国~ドイツからイタリアへ⑮~

 ドイツに別れを告げてスイスのチューリヒに向かう。向かうのだがまっすぐチューリヒを目指しても面白くないので,前夜トマスクック時刻表をながめながら少し遠回りしてオーストリア経由のルートを思い立った。
 オーストリアはそもそも旅程にはなかったが,この日は一日移動日として覚悟していたし,どうせ一日移動するならいい景色を眺めたい。それならオーストリアといえばミュージカル『サウンド・オブ・ミュージック』(1965)の舞台ではないか。しかしザルツブルクにまでいってしまうと少しの遠回りが1日遠回りになってしまう。アウグスブルクの宿を早く発ち,ミュンヘンからインスブルックへと向かう国際列車に乗り込んだ。インスブルックはミュンヘンのほぼ真南にある。2時間ほどで到着する。
 列車はこのまま南下してブレンネル峠を越えて北イタリアへ向かう。実は『サウンド・オブ・ミュージック』のトラップファミリーもスイスではなくイタリアに向かった。トラップファミリーは実在しており,『サウンド・オブ・ミュージック』は実話に基づいている。この実話はファミリーの長女マリアの自叙伝をもとに西ドイツで『菩提樹』(1956)という映画になった。『菩提樹』の続編では亡命先のアメリカでの生活も描かれている。『サウンド・オブ・ミュージック』がアカデミー賞を採ったのは1965年だから,それよりも約10年早い作品である。作品は原作を重視してか,ドイツの堅物精神からか淡々と展開していく感はいなめないが,オーストリアを舞台にドイツが敵側の作品を制作したことに感心する。心揺さぶる歌やダンス,何よりアルプスの大自然をバックにしたカメラワーク,エンターテイメント性はやはりアメリカ作品に軍配が上がる。
ブレンネル峠を越えるルートは古代からアルプスを南北に行き来する軍事・経済,そして文化の要衝であった。ゲーテもこの峠を越えてイタリア旅行に向かった(『イタリア紀行』)。ゲーテとはあとで合流することにして,わたしはインスブルックで進路を90度西に向ける。『サウンド・オブ・ミュージック』の中でトラップファミリーが向かったはずのルートである。

 

 


 車窓の風景を2時間堪能すると国境のフェルトキルヒ(Feldkirch)に停車する。国境には違いないが,スイスとの国境ではない。これから通過するのはリヒテンシュタインである。この国際列車はスイス側の国境駅ブフス(Buchs)まで約15㎞,リヒテンシュタインという国の領土を通過する。リヒテンシュタイン,正確にはリヒテンシュタイン公国は立派な独立国である。公用語はドイツ語で,面積は160㎢,大阪市よりまだ小さい。
 リヒテンシュタインは神聖ローマ帝国内の領邦国家の一つであったが,その中で独立国家として現在でも残っている国はおそらくリヒテンシュタインだけではないだろうか?リヒテンシュタイン公はもう歴史上の存在となったドイツ貴族の生き残りである。
 リヒテンシュタイン公国が現在に至るまで独立を保てたのは,一重にリヒテンシュタイン侯爵家の財力とその財力をもとにした金融業にあった。またタックスヘイブンの地としても知られ,この点モナコ公国にも似ている。非武装中立を宣言しており,国を取り囲むスイス・オーストリア同様永世中立国であり,軍事はスイスに依存している。軍事だけではない,政治的にもスイスに頼っている。
 フェルトキルヒからブフスまでの間,列車はゆっくりとリヒテンシュタイン領を走るが,いつ領内に入ったのか,オーストリアと違う風景が広がるのかと少しは期待したが特に変化はなく気が付いたらブフスに付いていた。入国審査も特になくここで機関車をスイス国鉄に連結し直す。ここで降りてリヒテンシュタインの首都ファドゥーツに立ち寄ることもできたが,この路線に乗ったもう一つの目的地が先に待っていた。わずか15分の国であった。