チューリッヒから列車で1時間半のところにバーゼルという都市がある。現在はここバーゼルでフランス・ドイツ・スイスの三国が接している。地図によると三国国境は中央駅から北に約5㎞,少し離れたところにある。途中寄り道しながらのんびりと歩いていくことにした。
まずは駅からまっすぐ北に進路をとり,バーゼル美術館に向かう。この美術館は世界最古の公共美術館といわれているが,実際のところ本当かどうか調べたことはない。この手の「世界最古」を標榜する施設はよくあるからだ。「世界最古の修道院」,「世界最古の薬局」,「世界最古の図書館」などなど。
ただ収蔵しているコレクションは立派なもので,後期印象派のゴッホやゴーギャンにセザンヌが見られる。ドイツルネサンス期の作品も豊富で,イーゼンハイム祭壇画で有名なグリューネルバルト,(イーゼンハイム祭壇画はのちにフランスのコルマールで本物を見ることになる。)そして「死者の踊り」で知られるホルバインのコレクションがある。
ホルバイン(1497?~1543)は高校の世界史で学んだ。ドイツルネサンスの代表的な画家であり,北方ルネサンスの有名人エラスムスの肖像画を描いた人物である。エラスムスといえば,ホルバインなのである。当時ドイツでは宗教改革の嵐が吹き荒れていた。反カトリック的な風刺作品もまた彼の特徴である。そこでドストエフスキーの小説「白痴」の中でそんなホルバインの作品が登場したことを思い出し,その絵を見に行くことにした。「白痴」とはまた酷い日本語訳だが,原題も「Idiot(もちろんキリル文字で)」,英語でもidiotは馬鹿者である。
「白痴」(馬鹿者)とは,この小説の主人公ムイシュキンのことだが,作者はこの人物をドの過ぎた善人として描こうとしている。過渡な善人と愚か者は現実の世界では紙一重であるが,この底抜けの善人のモデルこそイエス,たぶんホルバインが描いたイエスだったのだろう。
さて「白痴」に登場するバーゼル美術館のイエスは「墓の中の死せるキリスト」と題されている。この絵,ありとあらゆる点が妙ちくりんである。まずそのサイズから異様である縦幅は30㎝ほどしかないのに横幅は2mもある。普通イエス(キリスト)を題材にとった絵は,誕生,布教と奇跡,人類の罪を背負った磔刑,そして復活・昇天といったシーンである。しかしこの絵のイエスは地中の棺桶に横たわった単なる物質としての死体である。「墓」,しかもその「中」であり,「死」なのだ。そのイエスの姿(死体)というと,瞼は開いたまま,口元は力なく半開き,杭を打たれた手足は黒ずんで腐りかけている。脇腹の槍の傷跡は開いたまま。信仰心の強い人や当時のカトリックにとっては衝撃というより,侮辱に近いかもしれない。
バーゼルでこの絵を鑑賞したドストエフスキーは「白痴」の中でこのように書いている。
もしもちょうどこれと同じような死骸をキリストのあらゆる弟子たちや,主な彼の使徒たちが見ていたとしたらば,……この殉教者が復活しようなどと,どうして信ずることができたのか?と。もしも死がこのように恐ろしく,自然の掟がこのように強いものであるならば,どうしてそれを征服することができるのかと,こういう観念が思わずも浮かんでくるだろう。……もしも師みずからが,おのれの姿を刑の前夜に察することができたならば,はたして,このような態度で,十字架に昇り,今ここに見るような死に方をしたであろうか?…
われわれはこの絵に生身の自然のイエスをみる。ドストエフスキーもすべてを超越し,数々の超自然的な奇跡を成し遂げたイエスではなく,自然の一部として生きる1人の人間としてのイエスに無垢で純真なムイシュキンを重ね合わせ,この物語を絵描きたかったのだろう。