You ain't heard nothing yet!

ある社会科講師の旅の回想録

You ain't heard nothing yet!(お楽しみはこれからだ!)

ジェノヴァ・ピサ経由~ドイツからイタリアへ㉖~

 フィレンツェに向かう。ミラノからフィレンツェまではボローニャを経由する直通の特急がある。トマスクック時刻表には「R」つまり「reservation(予約)」のマークがなかったが,特急ということで予約が必要か。その辺りを歩いている駅員さんに聞いてみた。二等のユーレイルパスでは予約車には乗れない。「予約なしで乗られるか?」。返事は「乗られない」らしい。時間にはルーズなくせにこのあたりは厳しい。

 しかたなしにその列車はあきらめて,トマスクックの地図を眺めてみた。すると面白いルートを思いついた。ローカル線でミラノからジェノヴァ,ジェノヴァで乗り換えて,海岸沿いに南下してピサにいく。ピサで再び乗り換えて,フィレンツェ。これなら寄り道しながら,夕方にはフィレンツェに着く。

 ジェノヴァに着いた。ジェノヴァはドーリア家の街であった。ドーリア家はジェノヴァの貴族である。歴戦の海軍提督を多く輩出した家系で,1535年,オスマン帝国とのプレヴェザの海戦で指揮を執ったアンドレア=ドーリアが有名である。コロンブスもまたジェノヴァの出身である。歴史に名を残す才能ある船乗りをを輩出してきた海洋国家であった。それでもジェノヴァがヴェネチアほどの繁栄を築けなかったのは,船乗り個人の秀でた才能と頻繁な派閥争いに因ると,地中海の歴史物語を数々執筆してきた塩野七生さんはそこかしこで述べ,ヴェネチアの政治システムを賞賛している。

 ジェノヴァという町の名はたぶん人生で最初に耳にしたイタリアの地名に違いない。私たちの世代では子どもころ,「母をたずねて三千里」というアニメが放映されていた。アルゼンチンに出稼ぎに行ったまま音信不通の母を探しに,主人公マルコがイタリアから単身海を渡る。このマルコの出身地がジェノヴァであった。このアニメで見た懐かしい風景をたずねてみようかと思ったが,少し立ち寄るにはこの街は広さや歴史も大きすぎた。駅から出て後ろ髪を引かれるのも辛いので,そのままピサへ向かう列車のホームに向かった。

 幸い次の列車は時間通りに到着したため,ジェノヴァへの未練はすぐに消し飛んだ。列車は海沿いを南下する。これが初めて見る地中海であった。英語の「Mediterranean」は「terra=大地」の「medi=真ん中」でそのまま地中海というわけであるが,かつてローマ人たちは「mare nostrum=我らが海」とよんだ。ローマ亡きあと,この海を「我らが海」としたのが,ヴェネチアであり,ジェノヴァであり,アマルフィであり,そしてピサであった。現在でもイタリア海軍旗には,イタリア国旗の真ん中の白地の部分に,中世に地中海の派遣を争ったこれら4つの共和国の紋章が描かれている。

 ピサはウェルギリウスの『アエネイス』にも「都市」として登場(第10巻179行)するくらいだから,それが本当だとしたら4つの海洋国家の中ではもっとも歴史が古い。少なくともウェルギリウスが生きた紀元前1世紀には都市として栄えていたということだ。ただヴェネチア・ジェノヴァ・アマルフィの3都市は今でも海のイメージが付きまとうのに対し,ピサが海洋国家だったという点については,イメージしにくいかも知れない。現在のピサは海岸線から少し離れているところに位置しているからだ。

 ピサ中央駅には昼過ぎに着いた。降り立ってみても潮の香はおろか,港町を連想させる何事もない。有名な斜塔があるピサ大聖堂へは中央駅から北に向かう。川にぶつかったら,これがアルノ川である。アルノ川の現在の河口はここから15㎞ほど下ったところにある。ピサが海洋国家であったころ,海岸線はもっと内陸側にあり,中型船なら川を少し遡るだけでよかった。アルノ川の堆積作用によって海岸線が徐々に後退,同時に川底も浅くなっていく。海との行き来が困難になっていくにしたがって,ピサは海洋国家としての地位を失っていく。