橋をわたってもう少し北へと歩くと,突然開けた場所に出る。その見事に整えられた芝生の真ん中に白亜がまばゆいピサ大聖堂と斜塔が建っている。11世紀から13世紀の長期にかけて断続的に建設された。ちょうどこのころは十字軍の遠征期にあたる。十字軍は他の海洋国家にもれずピサにも富をもたらした。ピサが海洋国家である証は,この大聖堂に残されているというわけである。
この時期の建築様式はいわゆるロマネスク様式というもので,12世紀末から盛んになるゴシック様式以前の建築様式である。ゴシックに比べ技術が未熟だったロマネスクでは,建物の重さを支えるための分厚い壁が必要であった。窓が小さいのも建物の強度を高めるためである。一般的にロマネスク様式の教会は「重厚感がある」といわれる。わたしも高校の世界史でそのように記憶していた。また他のロマネスクの代表例を挙げてみろといわれても,頭をひねるしかないくらい,ピサ大聖堂はその代表選手なのである。
しかし実際にみてみるとどうだろうか。ピサの大聖堂で「重厚感」といわれても説得力に欠ける気がした。それは建物の上半分にみられる整然と並べられたアーチと列柱のせいであろう。斜塔にしても同じである。びっしりと壁が詰まっているのではなく,柱によって生まれる隙間や空間が印象を軽くする。その白さも合わせると実に貴婦人を見ているような感覚である。ロマネスクらしさを伝えたいならもっと別の例を登用するべきである。
斜塔の方は私が訪れたとき,倒壊の危険があるとして登ることはできなかった(現在は可能らしい)が,その数か月前,この頂上に老齢ながら登った人物がいた。ヨハネ=パウロ2世,当時のローマ教皇である。彼が塔の頂上から発した言葉は,ガリレオへの謝罪と破門の解除であった。そういえばヨハネ=パウロ2世は同じく地動説を唱えたコペルニクスと同じポーランド出身であった。
とくかくピサの繁栄は大聖堂とともにあったが,13世紀末にジェノヴァに負ける。1284年,メロリアの海戦後,ピサは再び海洋国家としての栄光をつかむことはできなかった。15世紀,今度は陸側の敵フィレンツェ共和国に併合され,その外港としての地位に甘んじることになる。逆にフィレンツェにとっては念願の海への出口を手に入れた訳である。アルノ川を遡った先にフィレンツェがある。一路フィレンツェを目指した。
ピサからフィレンツェまでは列車で1時間ほどで着く。トマスクック時刻表にはFirenze SMNとある。このSMNが何なのかはじめはわからなかったが,駅を出て地図を見ながら納得した。目の前にあるのがサンタ・マリア・ノヴェッラ教会,Santa Maria Novella,つまりSMNである。夕暮れも迫っていたし,すべての観光は明日にしてまずは駅周辺で安宿探し。どのあたりの何というホテルか,今となってはもう記憶にないが,駅で買ってきたイタリア初体験となるピザと,ホテルのお姉さんに頼んだ地産の赤ワインの小ボトルで夕食をとったことは覚えている。テレビをつけると「KARAOKE」と題された歌番組がやっていて,何となく見ていると次の日の作戦を立てる前に寝ていた。長い移動の一日だった。