フィレンツェの街歩きに出かける。大雑把に北から南下する形で駅前からローマ門に向かってフィレンツェを縦断する。まずはサンタ・マリア・ノヴェッラ教会から東にサン・ロレンツォ教会へ向かう。途中の小さな通りには所狭しと革製のバッグ・ベルト・ジャケット・小物の露店が並ぶ。「フィレンツェに来た」という感じがわいてくる。フィレンツェは皮革職人の街でもあった。
中世ヨーロッパでは商工業者の同業組合は総じてギルドというが,ここフィレンツェではアルテとよばれていた。フィレンツェのアルテは全部で21あり,上位7つの大アルテと下位14の小アルテに分かれていた。フィレンツェはヴェネチアのような貴族による寡頭制の共和国でないことは先に触れたが,ここは商工業者が自ら市政を担当する。市政府は七大アルテから6名,小アルテから2名,そして行政長官を合わせて9名で構成され,これをプリオーリとよんだ。行政長官は日本語で「正義の旗手」と訳されている。この仕組みは13世紀末には整っていたようである。皮革(皮なめし)は小ギルドの1つであった。マイノリティーの職として社会的差別を受けてきた日本とは大違いである。
派閥争いも絶えなかった。当時,ヴェネチアを除く国々がそうであったように,教皇派(グェルフ)と皇帝派(ギベリン),教皇派が分裂した白党・黒党,アルテとそれに属さない下層労働者,そしてメディチと反メディチである。
13世紀末から14世紀初頭,フィレンツェでは教皇派が主導権を握っていた。さらに教皇派はその支持層の違いから白党と黒党が対立する。マキャヴェリいわく
フィレンツェ人の性格のうちには,どんな状態にも満足せず,どんな事件についても対立する何かがある(「フィレンツェ史」第二巻)
かのダンテ=アリギエーリは教皇派白党に属し,執政官プリオーリの一人であった。マキャヴェリの「フィレンツェ史」第二巻の1301年の記述には,この年黒党のクーデターによって政権が交代するとダンテは市外追放処分となったとある。ダンテは各地を転々とする中,黒党だけでなく教皇庁,そして腐敗したフィレンツェを批判し,大作『神曲』を書きあげた。『神曲』はフィレンツェのあるトスカナ地方の方言,トスカナ語で書かれている。このトスカナ語が現在のイタリア標準語の原型であるらしい。これはどこかで聞いた話だが,イタリア語には日本語のように古文がない。現在のイタリア語でもってダンテは読めるそうだ。古文となるともうラテン語を意味するらしい。
14世紀後半にはもう一つの大きな対立がおこる。マキャヴェリの「フィレンツェ史」第三巻にこの事件について詳しく書かれているが,全巻を通じてももっとも長い記述になっているのではないかというぐらい,マキャヴェリはページを割いている。
1378年,フィレンツェの下層労働者たちが反乱をおこす。その中心となったのが毛織物工業の梳毛過程の労働者であったため,彼らの名をとってチョンピの乱といわれる。彼らはアルテを結成することが許されず,それゆえ市政に参加する権利がなかった。当初反乱は成功し,ミケーレ=ディ=ランドという人物が「正義の旗手」に選任されるが,次第に市民の支持を失い,反乱は鎮圧される。
この反乱の同調者の中に新興商人のサルヴェストロ=ディ=メディチという名が見られる。反乱鎮圧後,市外追放となるが,メディチ家が民衆とともにあることを大いに印象づけたに違いない。その一方で,市の有力者からは危険分子のレッテルを張られることになった。
サルヴェストロは追放されたが,いとこのアヴェラルドは残った。彼は羊毛商をしていたが,金融業も経営する。その息子がジョヴァンニである。そのジョヴァンニは死の床で息子のコジモにこういった。
わしとして何よりも嬉しいと思うのは,今日までわしは人を誰ひとり苦しめたりなぞはしなかったし,それよりも寧ろわしを頼って来るひとたちは誰でも世話をしてきたことだ。お前たちも是非そういう風にするがいい。静かに月日を送りたかったら,法律や市民たちに頼みこまれない以上,決して政治に立ち入ってはいけない。そうしていれば必ず嫉妬や危険の惧れもないもの。…わしの手本通りにすれば,安心してやっていけるばかりじゃない。お前たちを大きくすることさえ出来るのだ。だが違った仕方をすれば,お前たちの行末は,わが国の歴史を見ても分かるように,自分自身やわが一族一門の破滅の原因となり不幸せな破目になるだろう。(「フィレンツェ史」第四巻)
過去を学び,未来の見える人だった。