サン・ロレンツォ教会には,新旧二つの聖具室がある。旧聖具室はブルネルスキが,新聖具室はミケランジェロが設計した。まぁ豪華なのはミケランジェロの方だが,旧聖具室では面白いものがみられる。ブルネルスキに設計を依頼したのがジョヴァンニ=ディ=ビッチ=メディチ。銀行業でメディチ家の礎を築いた人物であった。もともとジョヴァンニの礼拝堂として建築したが,ジョヴァンニの葬儀もここでとりおこなわれた。葬儀をおこなったのは息子のコジモ=デ=メディチである。
コジモはメディチ銀行を発展させ,フィレンツェにおけるメディチ家の地位を確固たるものにした人物である。サン・ロレンツォ教会の旧聖具室にはコジモの時期に使われたメディチ家の紋章が飾られている。金の盾に赤い球が8つ並べられたものがそうである。この赤い球は丸薬を表すといわれている。
メディチ家はその名が示すように「医者」・「薬剤師」,英語でいうところの「medicine」であり,もともとはそういった職に就いた一族であったことから丸薬が紋章に用いられているといわれている。ただし丸薬の数やデザインは時期によって異なる。
サン・ロレンツォ教会を出て,その北東向かいに立っているのがメディチ・リッカルディ宮殿。メディチ家の邸宅であった。のちにリッカルディ家に売却されたことから両家の名前が用いられている。宮殿は「パラッツォ」の訳で,英語ではパレス。パレスというと我々はヴェルサイユ宮殿などの広大な敷地に建つ豪華絢爛なお城のようなものを思い浮かべるが,そのイメージはのちに中央集権が進んだ国家の君主のもので,たいそうに「宮殿」と訳すよりむしろ「邸(邸宅)」くらいでちょうどいいのではないか。パラッツォ・メディチ,パラッツォ・ストロッツィ,パラッツォ・ピッティ,パラッツォ・ルチェライなど,フィレンツェは「宮殿」だらけになってしまう。
このメディチ邸の南東角,ゴリ通りとカブール通りの交差点を見上げると七球の紋章をみることができる。これもコジモ,あるいはその息子ピエロの時代のものだといわれる。ピエロは俗に「イル・ゴットーゾ」とよばれる。「痛風病み」という意味で虚弱体質であったらしい。コジモが築き上げたメディチ家の財産を維持・発展させ,多くの芸術家のパトロンとなった。フィレンツェ・ルネサンスの黄金時代を彩った芸術家の多くはピエロに見出されている。アルベルティ,ドナテッロ,ボッティチェリなどである。
七球の紋章のある交差点から南へ向かうとドゥオーモ広場に出る。ドゥオーモとはフィレンツェの代名詞,サンタ=マリア=デル=フィオーレ大聖堂である。いうまでもなくこの大聖堂の見どころは異様ともいうべき巨大なクーポラ(ドーム)であるが,これを眺めるには大聖堂前の広場は良い場所とはいえない。
このクーポラを設計したのはこれまたルネサンスを代表する建築家ブルネレスキである。ブルネレスキはこの巨大なクーポラを足場がなくても完成できると主張した。石工組合の委員会はこれに懐疑的であったが,ブルネレスキはその説明を拒否した。委員会の干渉を受けたくなかったからである。ある日,ブルネレスキは委員会のメンバーに向かって,いきなり卵を取り出してこういった。「この卵を立てられるのは自分だけだ。」と。委員はみな自分たちにはできないと認めた。そこでブルネレスキは卵の殻の上をつぶしてテーブルに立てたのである。「それなら私にもできる。」と委員はいったが,ブルネレスキは返して「もし私がクーポラのつくり方を話せば,あなたたちは同じようにいっただろう」と。この逸話はだれもが知る「コロンブスの卵」であるが,ブルネレスキはコロンブスの半世紀以上も前に人物である。話のもとはブルネレスキにあったのかもしれない。