You ain't heard nothing yet!

ある社会科講師の旅の回想録

You ain't heard nothing yet!(お楽しみはこれからだ!)

イル=マニーフィコ~ドイツからイタリアへ㉝~

 ピエロのあとを継いだのはその息子ロレンツォであった。ロレンツォは「イル=マニーフィコ」とよばれる。「偉大な」という意味である。メディチ家最盛期であると同時にフィレンツェ・ルネサンス最盛期をつくり出した男である。政治感覚にも秀で,ミラノ公国,ヴェネチア共和国,ローマ教皇庁,ナポリ王国の他,小国が乱立するイタリア半島情勢を勢力均衡の方針で外交手腕を発揮した。

 その一方で内政では大敵をつくることにもなった。「パッツィ家の陰謀」として史上知られる事件はサンタ=マリア=デル=フィオーレ教会で起きた。1478年,大聖堂でのミサの最中,政敵一族パッツィ家のフランチェスコらがロレンツォらを襲撃,弟のジュリアーノは殺されるが,ロレンツォは九死に一生を得た。ロレンツォは事件の収拾に乗り出し,政敵を沈め,災い転じて福となした。そしてフィレンツェは国内外ともに安定した時期を迎える。マキャヴェリの「フィレンツェ史」は1492年のロレンツォの死の年で幕を閉じるが,その最後にはこう書かれている。

サルツァナの合戦が終わってから1492年ロレンツォ・デ・メディチが死ぬまで,フィレンツェは波風一つ立たぬめでたい年月を過ごしていた。実のところイタリアは彼の知謀と信望のおかげで平和となり,刀はさやに収まり,ロレンツォはひたすら祖国とおのが一門の繁栄に没入していたのだった。

さらに

彼の個人的な仕事について言えば,商売にかけてはこの上もなく不運つづきで,その財産の管理に当たっていた連中が全く無秩序だったからである。彼の本領は,そういう一私人としてではなく,むしろ君主としての生活に見出される。その資本の大半を蕩尽して,国家は彼の信用を維持するために莫大な金を貸してやらなければならなかった。彼としても二度とそういうどんでん返しの目にあうのもいやになり,きれいさっぱり商売から手を引き,何より安全確実な財産と思う土地を買う方に回った。

そして

彼はその晩年ひどい病に襲われ,一瞬のあいだも休まる日ひまはなかった。それは激しい胃の痛みで,このためついに1492年4月,行年44歳をもってこの世を去ったのである。フィレンツェでも,いな全イタリアを通じて,彼ほど深謀をうたわれ,彼ほど祖国に惜しまれて死んだ人はなかった。…市民を挙げて,イタリアの諸侯もこぞって心からその死を悼み,あらゆる君主は競って使番衆を使わしてフィレンツェ市民とともにその深い悲しみをわかちあった。…イタリアは彼の明快な意見を聞けなくなり,残されたものの中でミラノ公国の領主ロドヴィコ・スフォルツァの野心をくじき,さもなくば制圧できる人間などはただひとりもいなくなったからである。この故にこそ,ロレンツォが瞑目すると,こういう不幸の芽生えがたちまち頭をもたげ,誰ひとりこれを刈り取ることもできなくなり,ついにそれがイタリア全体をおおって,今日なおもこの真の破滅の因となるにいたったのである。

 政治の世界ではマキャヴェリズムと呼ばれるその提唱者マキャヴェリをして最大の賛辞を受けたロレンツォであったが,「フィレンツェ史」のこの最後の文章からいくつかのフィレンツェに関する暗い予言がみられる。(もちろんマキャヴェリはその後何十年かのフィレンツェを目の当たりにている)

 一つはロレンツォのつまりメディチ家の財産が破綻状態にあったこと。そしてロレンツォの死によってイタリアの勢力均衡が破れようとしていたこと。加えて我々はロレンツォの死んだ1492年が意味する重大さを知っている。コロンブスが新大陸を発見し,スペインで国土回復運動が完成した年である。二つに共通するのはスペイン。今後,イタリア半島では中央集権化を図るスペインとそれに対抗するフランスの動きが激化する。イタリア戦争である。それとともにフィレンツェ,そしてメディチ家の運命も大きく揺れ動く。ロレンツォが死んだころレオナルド=ダ=ヴィンチの姿はフィレンツェにもうなく,活動の拠点はミラノに移っていた。(「最後の晩餐」もそのころの作)最大の後援者を失ったミケランジェロもフィレンツェ離れざるを得なくなった。最初に動いたのはフランスであった。