サヴォナローラののちメディチ家は,ピエロの跡をロレンツォの二番目の息子ジョヴァンニが継いでいた。このジョヴァンニ,16歳の若さで枢機卿の地位を得ている。もちろん親の七光りである。ジョヴァンニはフランスの大敵ハプスブルク家の援助を受け,1512年にフィレンツェに帰還した。そして何と翌年,ジョヴァンニはローマ教皇に推戴される。レオ10世,あのルターの宗教改革の原因となった贖宥状(免罪符=天国行きの切符)の販売で悪名高き教皇である。メディチ家教皇の誕生,それはルネサンスの中心地がフィレンツェからローマへ移ったことを示していた。
レオ10世のあとクレメンス7世もメディチ家から教皇となるが,クレメンスが今度はフランスと組んだことから,神聖ローマ皇帝(ハプスブルク家)のカール5世の怒りを買う。カール5世の軍はローマに侵攻し,略奪の限りを尽くした。1527年,「ローマの劫掠」とよばれるこの一大事は,ローマを壊滅に追いやる。こうしてルネサンスはローマからも去り,その精神と技術はヴェネチアに,そして北方の国々へと受け継がれていった。
サンタ・マリア・デル・フィオーレ教会をぐるりと一周し,西隣に建つのがサン・ジョヴァンニ洗礼堂,その西向かいの建物の北角にメディチ家の紋章がかかっている。ジョヴァンニ(教皇レオ10世)の紋章である。この紋章にはメディチ家の印である球が6つ。上部に鍵と冠があるのはローマ教皇の印である。球のうち5つは赤く,一番上のものは青く百合のデザインが描かれている。百合はフィレンツェの紋章であるが,これは違う。フランス・ヴァロア家のものであるという。かつてコジモの息子ピエロがフランス滞在時にフランス王ルイ11世に気に入られ,百合の紋章を許されたということらしい。