紋章を見たあとこのまま南へ向かうと共和国(レプブリカ)広場に出るが,広場を過ぎるとカリマラ通りに入る。入るとすぐに羊毛を取り扱う職人・商人のギルドがあった邸宅が残っている。イタリアのギルドはアルテと呼んだということはすでに触れた。アルテとは英語のアート。ルネサンス以前は芸術ではなく,技術を意味したこともすでに触れた。通りの名のカリマラもまた布の染色・仕立て業者を意味するアルテの名である。羊毛(ラーナ)・染色(カリマラ)に加えて銀行(コンビオ)の三つがフィレンツェの三大ギルドであり,フィレンツェの市政を担当するプリオーリを選任することができた。このカリマラ通りとロッサ通りが交わるところにメルカート・ヌーヴォ(新市場)とよばれる一角に出る。このあたりに初期のメディチ銀行もあったらしい。おそらくこのあたりが元来のフィレンツェの姿を一番感じられる一帯ではないだろうか。
観光客用の革製品や布製品だけではない。ここにこうして市場(メルカート)が開かれるずっと前から,この一帯はギルドの巣窟のような場所であり,ギルドがフィレンツェの心臓であった。時間のある方は散策してみるとよい。かつてのギルドの名残りがそこかしこに残っているはずである。
政治だけでなくルネサンスを支える富もまたギルトが生み出した。よくルネサンスで栄えた北イタリア諸都市の富の源泉は東方貿易にあったと説明されるが,事はそれほど単純ではない。ヴェネチアが主導した13世紀の第四回十字軍のころならともかく,14世紀のイタリアには東方からは富だけでなく厄災ももたらされた。厄災とはペストそしてオスマン帝国である。さらに北方にもライバルがあらわれた。南ドイツやイングランドの商人である。
15世紀になるとペストも一段落し,人口や経済も回復の兆しが見え始める。ルネサンスには「死」からの「再生」という背景もあった。一方オスマン帝国の快進撃は留まることを知らず,1453年,メフメト2世がついに東ローマ帝国の首都コンスタンティノープルの攻略に成功する。
ところでヨーロッパでは染色や皮なめしにミョウバンという鉱物を利用していた。媒染剤として用いる。しかしヨーロッパではこのミョウバンがほとんど入手できなかったので,すべて輸入に頼っていた。良質のミョウバン石の鉱山は黒海沿岸にあったのである。コンスタンティノープルが陥落したことでミョウバン鉱の入手がいっそう困難になる。イタリアの商業と織物産業は大打撃を受けた。
東ローマ帝国の滅亡によって多くのギリシャ人の文人がイタリアに流入し,古典ギリシャの書物もまた東方からもたらされた。これはルネサンスの思想的土台となるのだが,ミョウバン鉱の知識をもつ者も脱出者の中にいたはずである。そしてそうした者の手によって,なんとローマ近郊のトルファという村からミョウバン鉱が発見されたのである。
媒染剤は見つかったあとは原毛の供給地である。そこに一役買って出たのがイングランドやフランドル地方の商人であった。折しもフィレンツェは15世紀のはじめにピサを併合し,念願の海の窓口を手にしていた。毛織物取引と衣類の交易はフィレンツェに莫大な富をもたらした。イングランドの羊毛を毛織物ギルド(アルテ・ラーナ)が仕入れ,染色ギルド(アルテ・カリマラ)が加工する。メディチ銀行はロンドンやブリュージュにも支店をもつようもなった。ジョヴァンニやコジモの時代である。
※フランドル地方…オランダ南部からベルギー,フランス北部にかけて地方。ブリュージュは現在のベルギーの都市。