ウフィツィ美術館をアルノ川沿いに出ると世界でもっとも有名な橋の1つポンテ・ヴェッキオが見える。「ヴェッキオ」というイタリア語はよく耳にする単語であるが,「古い」という形容詞である。「ポンテ」は「橋」だから特別な名前ではなくて「古い橋」となる。日本にはやたらポンテ・ヴェッキオというイタリア料理店があるような気がする。すべてチェーン店なのだろうか。フィレンツェ最古の橋だそうだが,現在のものは14世紀に架けられたのが基になっている。基になっていると書いたのは,外側からみると石橋の上に長屋がそのままのっかっていて,そのすべてを今ではポンテ・ヴェッキオとよんでいる。住所もやはりポンテ・ヴェッキオなのだろうか。

いざ橋を渡ろうといってみると,ここが本当に外から見ていた橋なのか,場所を間違っていないか不安になる。というのも橋の両側に並んだ店舗のおかげで,橋から川を望むことができないのだ。一見,普通の通りとなんら変わりがない。川沿いを歩いてこないと,つまりまっすぐ橋に向かうといつ橋を渡ったのか気が付かないという人もいるはずである。
14世紀にこの橋が架けられていた当時は,両端に肉屋が並んでいた。処理した不要な部分をそのまま川に捨てられたのだろう。フィレンツェがトスカナ大公国の都となったコジモ1世のときから肉屋は移転させられ貴金属を取り扱う店が招致された。

橋を渡り,そのまま進むとグイチャルディーニ通りと名付けられた通りを歩くことになる。マキャヴェリと同世代の歴史家にフランチェスコ=グイチャルディーニがいた。『イタリア史』という大著を残した人物であるが,この大著の翻訳はその分量と高価格のため,わたしはまだ手にしていない。その点マキャヴェリの著作は手に入れやすい。グイチヤルディーニ家もまたフィレンツェの名門一族の1つであり,この通り沿いに邸宅が残されている。マキャヴェリ宅もまたこの近くにあったはずだが,どこだかわからなかった。
グイチャルディーニ通りをさらに進むとピッティ宮殿がみえてくる。コジモ=デ=メディチのライバル的存在,銀行家ピッティ家がメディチ宮殿に対抗してアルノ川の向こうに建てさせた邸宅であるが,のちにトスカナ大公コジモ1世が買い取り,メディチ家断絶ののちもトスカナ大公の邸宅として使用された。
コジモ1世がこのピッティ宮に移り住んだころ,対岸のウフィツィも建設される。コジモ1世はなんとこれら公私両建築を直接つなぐ大回廊をウフィツィの設計者ヴァザーリにつくらせる。ヴァザーリの大回廊とよばれ,今でも行き来することができるが,そのためにはアルノ川をも渡らなければならない。ポンテ・ヴェッキオはよくみると重層構造になっている。その上階こそヴァザーリの回廊の一部なのである。コジモ1世がポンテ・ヴェッキオに貴金属店を招致したのは,このヴァザーリの回廊と関係があるのかもしれない。
ピッティ宮過ぎて正面のロマーナ通りをさらに進む。ロマーナ通りは「ローマ通り」,その先にあるのがロマーナ門だ。「ローマ」の名を冠する門が他都市にあるのは,その門から出る街道がローマに通じるからである。かつてローマへ向かう旅人たちはこの門をくぐった。フィレンツェの中心部を縦断した私も一応この門をくぐって次の日はローマに向かう。たいした門ではないが,まぁ形だけでも気分を味わいたかっただけである。
再び来た道を取って返して,この日の最後にフィレンツェを一望できるミケランジェロ広場まで登ってみることにした。アルノ川南岸から広場まで坂道が続いている。坂道の隙間もないくらいの路上駐車には少しがっかりする。登りつめたころはもう陽が傾きはじめていた。
広場の中央にはダビデ像のレプリカが建っている。その前に立ち振り向けばフィレンツェの街並みが一望できる。サンタ・マリア・デル・フィオーレ教会のクーポラだけが異様なまでに巨大で,まるでそこだけ人のサイズさえ違っているのではないかと思ってしまう。リリパットに縛られたガリバー,そんな感じがしないでもない。夕焼けに彩られたフィレンツェは,美しくもまた悲しくもあった。黄昏色がそう思わせるのか,青春時代を懐かしむ穏やかな老人のようであった。
