「この夏はカンボジアに行こう。」その夏そう思い立って,ポンちゃんに話すと,いつもと違ってその返事は快いものではなかった。たいていどこへでも,私に付いてきたがる彼女であったが,「カンボジア」と聞いた瞬間,少しためらった。「少し怖い」というのがその理由であった。カンボジアは私たちが子どものころから「内戦」の代名詞であった。その象徴が対人地雷。そのイメージが頭の奥に刷り込まれているのである。
ベトナム,ラオス,カンボジアのインドシナ三国は,戦前仏領インドシナとよばれ,フランスの植民地(保護国)であった。カンボジアは大戦後の1953年に独立を果たす。ノロドム=シアヌーク(シハヌーク)を国王とする王国となる。以降,カンボジアの正式名は度々変わるが,ややこしいのですべてカンボジアと呼ぶことにする。
1965年にベトナム戦争が始まると,隣国カンボジアもこの戦争に巻き込まれていく。1970年,親米派のロン=ノル将軍がクーデターをおこし,新政権はアメリカと組んで北ベトナムに対することになった。一方,中国に亡命したシアヌークは,共産主義勢力のクメール・ルージュ(赤色クメール)と組んで反米・反ロン=ノルの旗を振り,内戦が始まった。ロン=ノルを支援するアメリカは,カンボジア内でも空爆をおこない,多くの人々が犠牲なり,難民となった。
1975年,ベトナム戦争がアメリカの敗北に終わるとロン=ノルの旗色も悪くなる。今度はロン=ノルがインドネシアに亡命し,クメール・ルージュによる新政権が樹立した。その指導者があのポル=ポトである。ポル=ポトは国家元首に再びシアヌークを迎えたが,事実上,権力はポル=ポトにあった。
ポル=ポト政権の統治は異常であった。旧宗主国であったフランス,そして中国に滞在した経験があるポル=ポトは,フランス革命の恐怖政治と中国の文化大革命,つまりロベスピエールと毛沢東の極端な一面を持ち帰った。「原始共産制」の実現。理論的にはユートピア思想であるかもしれないが,それを実行に移すためには障害が多すぎる。そしてポル=ポトはそれを実行に移した。障害は否応なしに排除したのである。理想家はときに感情的である。そしてそれが権力と結びつくと,残虐行為を正当化する。
通貨の廃止,娯楽だけでなく恋愛も禁止,宗教までも禁止して宗教施設を破壊する。教師,医者,公務員,資本家,宗教関係者などありとあらゆるインテリ層を強制収容し,処刑を実行した。メガネをかけているだけで知識層と判断され逮捕される始末。大量虐殺に加えて強制移住や強制労働による餓死,さらに飢饉や疫病,この政権下の4年間で死者は200万人ともいわれている(正確にはわからない)。
キリングフィールドとはポル=ポト政権下で大量虐殺の現場,処刑場のことである。同名の映画(1984)がある。カンボジア内戦を取材したニューヨークタイムズの記者シドニー=シャンバーグと現地で彼に協力したカンボジア人の助手ディス=プランの実話をもとにした作品である。
クメール・ルージュの制圧が進み,シャンバーグは帰国を余儀なくされるが,協力者であったプランは残されることになる。知識人が次々と処刑されていく中,プランは身元を隠し,逃亡を繰り返しながら生き残る道を探し続ける。
クメール・ルージュの目を覆いたくなるような残虐さが終始繰り広げられるが,一方で内部にはポル=ポトのやり方に疑問を呈する幹部がいたことも描かれている。その幹部の言葉
この国を愛している。すべてを犠牲にした。だがアンカ(指導部)の指揮者は人民を信用していない。だからわたしも彼らを信用していない。
プランはこの幹部に救われ,その幹部は粛清される。
内戦時のカンボジアを農業の点で考察した『禁じられた稲-カンボジア現代史紀行-』(連合出版)というノンフィクションがある。著者清野真巳子氏がポル=ポト時代に生き残った様々な立場のカンボジア人から当時の様子を聞き取った良書である。大手出版社とは違い,入手し易いとはいえないが,連合出版というところからはアジアを中心とした歴史・紀行文の良書が数多く出版されている。この本の中でも「反ポル=ポト派クメール・ルージュ」という言葉やその立場にいた人物の証言が掲載されている。クメール・ルージュがすなわちポル=ポトではないこと。ポル=ポトに対した男たちがいたこと。スターリン(ソ連),毛沢東(中国)同様,壮大な権力闘争と内部粛清が繰り広げられていたことを知ることができる。
ただしこれはまだ序の口であった。本当の内戦はここから始まる。ポル=ポト政権のカンボジアは親中であったが,ベトナムはベトナム戦争後,中国と対立するようになった。背景には中ソ対立があった。ベトナムは親ソ路線をとろうとしていたのである。ベトナムはポル=ポト政権から逃れようとするカンボジアからの難民や中国との間で国境紛争に頭を悩ませていた。1970年代にもなると共産主義勢力も一枚岩ではなかった。
ベトナムは行動に出る。1978年末,ベトナムはカンボジアに侵攻し,首都プノンペンを制圧。翌年,ポル=ポト政権を倒して親ベトナム派(=親ソ派)の政権を樹立した。ヘン=サムリン政権である。(これをきっかけにポル=ポトを支援する中国が南下してベトナムに侵攻し,中越戦争が始まった。)ここに親ソ派政権のヘン=サムリン,親中派のポル=ポト派,そしてシアヌーク派に加えて反ベトナムのソン=サン(旧ロン=ノル派)ら四派が入り乱れての内戦がはじまった。一応ヘン=サムリン以外の三派は反ヘン=サムリンという点で共同戦線を張っていたことになってはいたが,ポル=ポト,シアヌーク,ソン=サン(ロン=ノル)の三派の足並みが揃うはずがなかった。
タイ国境に追い詰められたポル=ポト派のクメール=ルージュは,地雷敷設によって防衛線を張る。対するヘン=サムリンの政府軍も地雷によって包囲する。双方の地雷作戦の結果,膨大な数の地雷がカンボジア北西部,タイの国境地帯を埋め尽くした。30種類の対人地雷が確認されており,多くはソ連製,中国製であるという。地雷は一度作動すると解除の方法はない。その数は500~600万個という資料をみたことがある。しかし500万個と600万個では,ずいぶん誤差がある。実際はどこにどれだけ敷設されたかとなると,これだけの数を把握できるはずない。文字通り足の踏み場もない。私やポンちゃんが中学,高校であったころの1980年代,カンボジアについての遠い記憶は,このころの内戦の惨劇である。