You ain't heard nothing yet!

ある社会科講師の旅の回想録

You ain't heard nothing yet!(お楽しみはこれからだ!)

殉職~カンボジア②~

 1980年代も末,米ソ冷戦が終結へと動く中,国際社会はカンボジア和平にも協力した。1990年,カンボジア和平会議が東京で開かれ,翌年のパリ会議で内戦当事者の四派が和平に同意する。PKO(平和維持活動)として国連がカンボジア入りし,UNTAC(国連カンボジア暫定統治機構)が設置された。UNTACの事務局長は日本人の明石康であった。このとき日本の自衛隊もPKO活動に参加するかどうかで,国会がすったもんだする。    

 自衛隊を海外に派遣する。1991年の湾岸戦争で多国籍軍に日本が参加しなかったことで各国から批判を浴びたことが日本にはトラウマとなっていた。国際社会の一員として自衛隊の海外派遣は,もう避けられない道となっていた。そしてカンボジアは自衛隊にとって最初の海外任務地となった。

 カンボジアに渡ったのは自衛隊だけではない。現役の警官も,現地の警察に協力するため派遣された。「文民警察官」という言葉をこのとき初めて知った。「文民」とは「軍人」あるいは「軍人としての経歴」をもたない人を意味する語で,つまりは非戦闘員である。そのため文民警察官には武器の携帯は認められていなかった。75名の文民警察官は丸腰で現地に乗り込んだのである。有刺鉄線で囲まれた拠点で集団活動する自衛隊とは違って,文民警察官はバラバラに各地に派遣された。

 1993年5月4日,ゴールデンウィークの真っただ中,日本に一報が入った。カンボジア北西部で日本の文民警察官が武装ゲリラの銃撃を受けて負傷。負傷の速報は,のちに死亡に変わった。殉職したのは高田晴行氏。派遣された北西部はポル=ポト派の勢力圏であったが,犯人が特定されることはなかった。高田氏の死の背景については,近年『告白 あるPKO隊員の死・23年目の真実』というノンフィクションで出版された。興味ある方は一読されたい。

 その1か月前,UNTACのボランティアとして選挙監視にあたった中田厚仁氏が何者かの銃撃を受けて死亡している。中田氏は1968年生まれであるから,私より少し年上であるが同世代といってよい。そして学部は異なるが大学が同じであった。面識は当然なかったが,同じキャンパスですれ違っていたかもしれない人物である。卒業後国際平和に貢献しようと,国連の活動に参加し,射殺されたのは総選挙実施の1ヶ月前であった。犯人はクメール・ルージュであったというが,正式な発表はなかった。

 1993年5月末,予定通り実施された選挙で,中田氏の村の投票率は99.9%であったという。選挙の結果,ノドロム=シアヌークを再び国王とする立憲君主制のカンボジア王国が成立し,現在に至る。中田氏の母校である大阪大学付属図書館(大阪府豊中市)の3階には中田厚仁記念文庫が設置された。

 こういった経緯からカンボジアは,旅行先として軽々しく選択できる国ではなかった。治安や環境,衛生がよくないといったレベルの話ではなく,また中東やアフリカ諸国のような遠い国の内戦・紛争でもなく,そこで日本人が命を落とし得る国として私たちの中で生々しい記憶が残っていたのである。

 1998年,クメール・ルージュの指導者であったポル=ポトが死亡したことであらかた内戦は終結したと考えられている。その後の大きな混乱はない。1999年にはASEAN(東南アジア諸国連合)への加盟を果たし,2000年代に入ると他の東南アジア諸国と同様,首都プノンペンを中心に経済発展が進んでいるという。プノンペンの写真をみると,中には高層ビルも立ち並ぶようになったのがわかる。

 そんな中,私の周りにもチラホラ,ボランティアや観光旅行でカンボジアを訪れる人が現れるようになった。カンボジア自身も観光業に積極的に投資し,外国人を受け入れている様子である。現在のシリアやアフガニスタンのように,私が生きている間に訪れることができるだろうかと,かつては夢のように考えていた国が随分,近くに思えてきた。あのアンコール=ワットをみてみたい。もうそろそろ,軟弱な私やポンちゃんでも行けるのではないか。そういうことになった。