アンコール=トム②
バイヨンの東側に象乗り場がある。象に乗るなどめったにないことなので,せっかくだから乗ることにした。象はバイヨンを一周する。象に揺られながら全方向,高い位置からバイヨンを見物できのだが,やはりというか,ところどころに崩れた石が散乱しており,荒廃が激しいのがわかる。

ジャヤヴァルマン7世の死後,アンコール朝は傾き始める。その治世による数々の寺院建築が仇となった。重税と労役が民を疲弊させた。後継者争いなど内部抗争も衰退の原因ともいわれる。ジャヤヴァルマン7世後の13世紀には北にはモンゴルが,14世紀には西にはアユタヤ(タイ)が勃興し,15世紀にこのアユタヤ朝によってアンコール=トムは陥落する。大乗仏教寺院であったバイヨンにもヒンドゥー寺院であったアンコール=ワットにも上座部仏教(小乗仏教)がなだれ込む。アンコールはその後のクメールの王朝から見捨てられ,ヒンドゥー・大乗・上座部の三教が混在したまま,混沌としたジャングルの一部となっていった。
ジャヤヴァルマン7世はまた単なる宗教狂ではなかった。「王の道」とよばれる公道を整備し,街道沿いには宿泊所や病院など公共インフラ整備に手をかけた。「王の道」もまたアンコールの衰退とともにメンテナンスされることもなく失われていく。ちょうどヨーロッパでローマ帝国の衰亡とともにローマ街道が廃れたように。
フランスで文化相を務めたアンドレ=マルローは,1923年,一攫千金を狙って植民地であったインドシナを訪れ,アンコール遺跡バンテアイ=スレイ(アンコール=トムから北に約30㎞)でレリーフを盗んで逮捕された。釈放後,このときの経験を基に『王道』を書いた。アンドレ=マルローが「王の道」で描いたのは,生死が隣り合わせの熱帯の厳しい自然であった。熱帯雨林は生命のあふれている一方,死にも満ちている。近代文明とはかけ離れた世界。主人公ら冒険者は,過酷な熱帯の自然条件の中,原住民の襲撃にもあう。そうまでして彼らを魅きつけたのが時とともに荒廃した遺跡であり,その中で何百年もの間変わらぬ笑みをたたえた女のレリーフであった。冒険小説ではあるが,物語は死に向かって進んでいく。
ぼくがはじめて死を悟ったのは,……一人の女が年をとってゆくのを見たときだ。
死を前にしてなんかじゃない……年をとる,そう,年をとると感じたときだ。とりわけ他人から引き離されているとき。挫折だ。ぼくの上に重くのしかかってくるのは 何と言うか?ぼくの人間としての条件だ。ぼくが年をとってゆき,時というこの残忍なものが,まるで癌のようにぼくのうちで撤回不能に大きくなってゆくということ……そう,時間てやつだ。
このきたならしい昆虫は,みんな光に屈伏して,この豆電球のところに集まってくる。この白蟻は,白蟻の巣に屈従して,巣の中に住んでいる。ぼくは屈従したくない。
ぼくが死を考えるのは死ぬためじゃない,生きるためだ。(『王道』滝田文彦訳 第三部1 新潮文庫)
人間であることは,瀕死の人間であることよりもはるかに不条理だ (同 第四部4)
死なんて……死なんてものはない……このおれが…あるだけだ。(同 第四部4)
19世紀,アンコール遺跡とその芸術を西洋に知らしめたというフランスのアンリ=ムオもまた,アンコール遺跡群の荒廃ぶりを嘆いて,こう記述する。
不幸にして何物をも尊重しない「時の力」
古代インドの死生観は輪廻転生である。バラモン教,仏教,ヒンドゥー教,いずれにせよアンコールの遺跡はそのインドの影響を受けている。一方,キリスト教的死生観は直線的時間観にある。キリスト教徒であったマルローやムオが遺跡を目にして感じた「時の残酷さ」が対照的で興味深い。そして私たち二人を乗せた象は,バイヨン遺跡をゆっくりと廻るのであった。
