アンコール=ワット②
実は仏教寺院となったアンコール=ワットに,鎖国前の江戸時代の日本人が訪れている。鎖国以前,日本は朱印船貿易をおこなっていた。朱印船とは朱印状をもつ船のことで,朱印状とは海外渡航の許可証である。目的地は東南アジア各地であった。そこではスペイン,ポルトガル,オランダ人が交易をおこなっており,加えて中国(明)の商人も活動していた。中国産生糸が最大の目的であったが,当時明は解禁(鎖国)政策をおこなっていたので,直接中国と交易をおこなうわけにはいかなかったからである。支払いには銀があてられた。銀は当時の国際社会の基軸通貨で,中国ではこの銀が不足していた一方,日本は石見銀山を筆頭に豊富に銀が採掘されていた。
日本から東南アジアへは南下する形になるので,北風が吹く晩秋から冬に出かける。帰りは南風が吹く春を待つ必要があるので,それまでは現地で待機しなければならない。そのため東南アジア各地に日本人が生活する一画が設けられた。これが日本町(日本人町)である。タイのアユタヤなどが有名だが,カンボジアの場合プノンペンにあった。そしてアンコール=ワットの噂を現地で耳にした日本人が足を運んだ。アンコール=ワットの壁や柱には日本人の墨書跡が14ヶ所あるという。落書きの年代は慶長17年(1612)~寛永9年(1632)までの20年間で,三代将軍徳川家光の時代である。(『西欧がみたアンコール』ベルナール・P・グロリエ著 訳注)幕府によって日本人の海外渡航・帰国の禁止の令が出されたのは寛永12年(1635)のことであるからギリギリのタイミングといってよい。禁を破ったものは極刑であった。
アンコール=ワットの噂は,江戸の幕府にも届いた。はじめは「かの祇園精舎のようだ。」であったかも知れない。もちろん釈迦が説法したといわれる本物の祇園精舎はインドにある。長崎通詞(通訳)島野兼了という人物が「かの祇園精舎を視察せよ。」という家光の命を受けて渡航する。彼が作成したアンコール=ワットの見取図は「祇園精舎図」として水戸藩(徳川御三家)の彰考館に秘蔵された。また森本一房なる人物が作成したという説もある。
江戸時代の中期から後期にかけての政治・文化・風俗を知る一級資料に『甲子夜話』という随筆集がある。肥前松浦藩藩主松浦静山によるものであるが,この中に森本一房(右近太夫・宇右衛門)という人物がどうやら祇園精舎を訪れたという記述がある。
清正の臣森本儀大夫の子を宇右衛門と称す。
清正とは加藤清正,肥後熊本藩初代藩主である。
儀大夫浪人の後,宇右衛門は,吾天祥公のとき屡(しばしば)伽に出て咄など聞かれしとなり。
天祥公とは肥前平戸藩藩主松浦鎮信のことで,森本一房はこの平戸藩に仕官していた。長崎の平戸は南蛮・朱印船貿易で栄えた港町で,寛永18年(1641)にオランダ商館が出島に移されるまで,幕府の海外貿易の窓口であった。森本一房は,海外渡航しやすい環境にいたことになる。「儀大夫浪人後」とは,加藤家が改易になった1632年のことで,これより後,一房は松浦鎮信のもとで,渡航話を語ったのだろう。
此人嘗て明国に渡り,夫より天竺に往たるに,…夫より檀特山に登り,祇園精舎をも覧て,この伽藍のさま自ら図記して携還れり。
明は中国,天竺はインドである。壇特山は北インドの山,そして祇園精舎もまたインドにある。その伽藍を図に記録してもって帰ったとある。一房はインドの祇園精舎を訪れていたつもりであったが,アンコール=ワットの西塔門をくぐった十字回廊とよばれる一角に,この人物が壁面へ残した落書きが残されているのである。何と書いてあるかよくわからなかったので,後に調べてみると
「御堂を志し数千里の海上を渡り」「ここに仏四体を奉るものなり」
と書かれているらしい。水戸藩に残る「祇園精舎図」は,この森本一房の手によるものだという説もあるが,アンコール=ワットをもって祇園精舎と日本人が勘違いしていたのは確かであろう。
勘違いは,13世紀にここを訪れた周達観の『真臘風土記』にもある。周達観はアンコール=ワットは魯班(原文:魯般)の墓だと記している。魯班とは中国の春秋時代の名工・発明家として知られる人物で,建築界の神話的人物である。魯班尺といえば,中国の雑貨店ではどこでも手に入る家庭用のメジャーで,長さだけでなく,その吉凶を占う風水では必須の道具である。
中国の春秋戦国時代,魯という国の出身。名を盤(班)といったため魯班とよばれているが,氏は公輸(こうしゅ)であったため,『墨子』では公輸盤と記されている。『墨子』の中の魯班の話は,同じ姓を名乗った魯迅の短編集(『故事新編』(岩波文庫))にも登場する。
「戦争をやめさせる話」と題されたその短編は,原題を「非攻」という。「非攻」とは「兼愛」などとともに重視された墨子の教えで,春秋戦後時代に墨家とよばれた。墨子(墨翟)は孔子より1世紀ばかり後の人物である。「非攻」は平和主義が根底にあるが,専守防衛の戦いは否定しておらず,侵略に対する守城戦においては特殊な技能を有し,数々の防衛戦を成功させたという。今でも「墨守」とは堅守を意味するが,墨家の集団が宋を守るため大国である楚の侵略を度々退けた故事からきている。公輸盤(魯班)はその中に楚側の人物として登場する。
公輸盤が発明した雲梯という攻城器を使って楚が宋を攻めようとする。墨子は楚に赴いて公輸盤を説得し,攻撃をやめさせようとする。公輸盤は,決定権は王にあるとし,墨子は楚王と面会する。墨子は楚王を説得したが,今度は楚王が公輸盤を納得させよという。墨子は公輸盤と模擬戦をすることにし,度々公輸盤の攻撃を防ぐことで,宋の攻略が不可能であることを示した。
この公輸盤(魯班),自分の発明した乗り物にのって行方不明となったという。周達観は,アンコール=ワットの見事な造りに伝説の人物の終焉の地をみたのであろう。

