「神奈川という名が付いているが,どこにも川はない。」
『江戸参府旅行日記』ケンペル
神奈川県の名は,この付近にあった神奈川湊が元になっており,港町として古くから栄えた。地名語源辞典(山中襄太著 校倉書房)によると,神奈川の名は文字通り川が語源であり,神奈川駅近くを流れる「滝の川」の古称という。
「滝の川」は河口付近以外の上流は今やほとんどが暗渠になっているが,昔から水源地がはっきりせず,水源無しの川の意味で「上無川」が「カナガワ」となまったという。
17世紀の江戸時代,長崎の出島のオランダ商館に医師として滞在したドイツ人博物学者ケンペルが,将軍綱吉に謁見するため江戸参府した記録『江戸参府旅行日記』にも神奈川に川なしの不思議を一言記録している。
神奈川という名が付いているが,どこにも川はない。
これに対して河口の砂地に水が浸み込んで川がなくなった「下無川」もあり,これがなまったものが東京の「品川」である。
宿場町としての目だった跡はないが,京急神奈川駅の近くには幕末開港当時,フランス公使館となった甚行寺が残っている。


☆寄り道
・生麦
川崎宿と神奈川宿の間,京急生麦駅は,1862年におこった生麦事件の現場近くである。東海道を下向中の薩摩藩主の父島津久光の行列と遭遇したイギリス人数名が藩士たちに殺傷された。国際問題に発展したこの事件は翌年,薩英戦争に発展する。この事件の直前に日本に通訳として赴任したアーネスト=サトウがその日記に事件の詳細を残している。『一外交官の見た明治維新』

・横浜
1858年の日米修好通商条約(安政の五カ国条約)で開港された港の1つは神奈川であったが,その前に結ばれた日米和親条約の締結地はここ横浜であった。現在神奈川県庁本庁舎に近い開港広場にある横浜開港資料館にその碑がある。以後頻繁に来日する外国人と宿場を行き来する日本人との摩擦を避けるため,神奈川の外国人の居留地は横浜に移された。横浜は当時小さな漁村に過ぎなかった。


開国後は日本最大の貿易港となった。欧米は日本産の生糸に目を付け,生糸は最大の輸出品となる。その生糸はといえば,産地も生産も栃木,群馬といった関東内陸部である。足利,桐生は江戸期から生産を伸ばし,明治初期には富岡(群馬)に官営の製糸工場が設置された。これらの生糸は東京に集められ,そして横浜に運ばれる。日本最初の鉄道が東京(新橋)-横浜間に敷設されたのはそういう事情もあった。埠頭に立ち並ぶ赤レンガ倉庫は明治時代からの面影を残す。

和洋折衷,鉄筋コンクリートに瓦屋根の神奈川県庁本庁舎は昭和初期に流行した帝冠様式の代表的建築として知られる。わが母校奈良県立畝傍高校の校舎も帝冠様式であったのを思い出す。内部もまたなかなかの趣があった。

神奈川県庁から海岸通りを南西に下ると「ホテル・ニューグランド」がある。日本を代表するクラシックホテルの1つで,戦後占領下にあったとき,占領軍の将校宿舎として使用された。マッカーサーも度々滞在している。私が滞在した日は雨だったため,最寄り駅のみなとみらい線元町中華街駅からタクシーに乗ったのだが,運転手はこういったのを覚えている。「あそこのホテルは他のホテルとは違いますよ。教育がね,ゆき届いていますよ。」
クラシックホテルでの滞在は私の趣味の1つだが,私がこのホテルで何より楽しみにしていたのが,レストランである。ナポリタン,シーフードドリア,プリンアラモード,これらの昭和フードはニューグランドが発祥という。(他説あり)ビールに合わせたのはもちろんナポリタンであった。ケチャップ味でなく,トマトソース味。雰囲気とともにじっくり味わった。




・中華街
・ドルフィン
「ユーミン」,「サザン」といえば,私たちおっさん世代の青春の1ページに太字で,なんなら二重下線付きで刻み込まれているミュージシャンであるが,私の青春ノートにはその名が薄く隅の方にしかみあたらない。
ただ友人の中には好きな奴がいた。高校時代,彼らはCDをきちんと購入するわけだが,私はそれを彼らから借りてテープにダビングし,かろうじて曲は知っているという程度であった。それらはたいてい私のストライクゾーンから外れるものであった。
が,松任谷由実も桑田佳祐も多作故に,中にはど真ん中直球ストライクの曲に驚くことがある。ユーミンであれば,「海を見ていた午後」がその1つであった。歌詞の舞台の「ドルフィン」は,一度は訪れたいレストランであった。少しの間,まったりと午後の海を眺めてみた。
歌詞には「山手のドルフィン」とあるが,山手駅より根岸駅(JR根岸線)の方が近いと思われる。