You ain't heard nothing yet!

ある社会科講師の旅の回想録

You ain't heard nothing yet!(お楽しみはこれからだ!)

東海道をゆく⑤~第四宿:保土ヶ谷宿~

「今,何刻でぇ?」『時そば』(落語)

 

 江戸時代,いわゆる現在の横浜は街道沿いの街として存在しなかった。ゆえに東海道第4の宿場は横浜駅(京急・JR)を過ぎて,JR保土ヶ谷駅に飛ぶ。駅前からJR線,国道一号線にかけて保土ヶ谷宿跡の数々の碑が見られる。


 広重の『東海道五十三次』の「保土ヶ谷」には,帷子(かたびら)川の橋の向こうに軒を並べた茶店の風景が描かれている。「二八」の文字が大きく見えるのは蕎麦屋であろう。

https://upload.wikimedia.org/wikipedia/commons/d/dd/Tokaido04_Hodogaya.jpg

wikipediaより

 「二八」とは,蕎麦粉八割に小麦粉二割を配合という意味の他に,「二×八」で16,当時蕎麦が十六文であったことに掛けている。この洒落に目をつけたのが落語の「時そば」である。

 蕎麦を食い終わった男が勘定を誤魔化す。

一つ二つ三つ四つ五つ六つ七つ八つ,と銭を二八そば屋の手の平に乗せ,「今、何刻(なんどき)でぇ?」

主人が

「へい,九(ここの)つでぃ」

と応える知らぬ顔で,

「十(とお)、十一、十二、十三、十四、十五、十六、御馳走様」と十六文を数え上げで,店を去る。

 駅から程ないところに「宿場そば」と銘打った「桑名屋」さん,昔風情漂うレトロな蕎麦屋がある。そこで天ぷらせいろを頂いた。店内には東海道宿場町の名前の入った木製の銭湯下駄箱が懐かしい。

桑名屋さんのインスタグラム

 このあたりから金沢・鎌倉への街道が分岐。南下すると金沢,横須賀,浦賀,そして鎌倉へと至る。東海道はここからやや西に方向を変え内陸を通り,戸塚を経て藤沢へと向かう。

☆寄り道 京急本線

 しばらく東海道を離れ,京急本線沿に乗る。その前に長くなるが蕎麦の話をもう少し続けたい。さらにその前に「ご飯」のことから始める。「稲」ではなく,毎日食べる「お米」のことだと思ってほしい。

「稲」はりっぱな被子植物だから実をつける。夏には小さな白い花も咲かせる。その実を「籾(もみ)」という。実は皮におおわれていて,一番外側の皮を籾殻(もみがら)という。この籾殻をはぐ作業を脱穀といい,脱穀されたものが玄米である。さらに玄米は内側の皮におおわれていてこれを糠(ぬか)という。玄米から糠を取り除くことを精白あるいは精米といい,この作業を終えてはじめてスーパーで売っている白いお米(白米)となる。

 精米した状態で長期間たつと酸化しておいしくなくなる。そのため昔は玄米のまま保存しておいて,当分使う分(だいたい10kg)ごとに近くのコインランドリーならぬコイン精米機に行って精米する。精米には家庭用語があって「米を搗(つ)く」というのである。「米,つきにいってくるわ」「いってらっしゃ~い」なんて会話聞いたことがあるだろうか。ないよなぁ今時。

 実は白米には栄養分がデンプンぐらいしかない。単純にいうと「太る」成分だ。一方玄米にはビタミン・食物繊維・ミネラルが豊富で,いいかえれば精米によってそぎ落とされた糠にこそ栄養分が宿っているのだ。ところが玄米を炊いて食べても,それは食べられたものではない。要はまずいのである。

 日本人は昔玄米を食べていた。江戸時代になってから精米技術が発達して,白いご飯を食べるようになったのだが,上流階級だけが美味い白米を常食し,庶民は制限されていた。明治時代になって制限は撤廃され,一般庶民も白米を食べるようになった。前述のように玄米は健康には良いのだが,いかんせんまずい。特に塩がないと食べられない。そのため日本の食文化は玄米を食べるために発達してきた。いわば漬物は野菜の塩漬けであるし,梅干,塩を汁に溶いたものが味噌汁といった具合である。一方白米は,栄養価は少ないが甘みがあっておいしい。(古い米ほど甘みが少なく塩分がほしくなる)「良薬口に苦し」とはよくいうが,実は美味しいものほど体に悪い。明治時代の白米食の広がりは日本人の国民病とでもいうべき病気も広めてしまったのである。「脚気」である。

 「脚気」はある栄養素が欠乏するとこの病気にかかる。「かっけ」と読む。心臓病や神経障害をきたし,死にいたることもある。しかし決して不治の病ではない。白米が玄米に比べて栄養価が低いといったが,白米食が広まりはじめた江戸時代,まずは江戸の将軍家や上級武士の間で脚気が広まる。江戸幕府後半の将軍が病気がちで短命であったのはこの脚気が原因だともいう。

 やがて庶民にも広まる。理由はわからなかったが,経験的に蕎麦(そば)を食べると回復し,江戸でそば食が流行した。現在も関西でうどん,関東でそばが好まれる理由はここにある。しかし脚気の原因が究明されたわけではなかった。

 江戸時代の後期から明治時代にかけて,科学の進んだヨーロッパ諸国が日本にやってくる。西洋医学の専門家も日本にやってくるわけだが,脚気についてはヨーロッパでほとんど症状がないためこの原因がわからなかった。

 この問題に最初に本格的に取り組んだのが創設されて間もない日本海軍であった。当時海軍では下級士官に脚気が多く,上級士官にはほとんどみられなかった。軍はこれを食事の違いだと考え,兵食を当時はまだ一般になじみのうすい洋食に切り替えた。パンと肉類(タンパク質)を多く摂取する食事だ。すると脚気の発生率がぐんと下がった。 しかしこのパンが当時の日本人には不人気で,すぐにパンは麦飯や白米に変わったのだが,日露戦争(1904年)ごろになると調理が簡単で,肉類と野菜がバランスよい食事としてカレーライスが採用された。イギリスを参考にしたという。イギリスはインドを植民地にしていたから,インド伝来のスパイス料理がイギリスを経由して日本でアレンジされたのだろう。また海軍では長い航海で曜日の感覚を失わないように毎週決まった曜日の夕食にはカレーが出されたという話も有名だ。こうして海軍によって脚気防止のため食されたカレーライスが国民の中に浸透していった。国民病が国民食を産んだ。

 海軍では食事によって脚気の改善はみられたものの日露戦争は壮絶な戦争であった。特に陸軍は悲惨であった。本来ロシアとの戦争は負けていてもおかしくなかった。それを戦術と外交で五分五分にもっていき,そこから半歩前に出たところで日本は勝ちをおさめたに過ぎなかった。武器・弾薬も最小限で,軍の司令本部は陸軍兵に対して,食の面では白米を送るのが精一杯であった。結果,戦死者とともに脚気による死亡者も大量に出た。脚気の原因究明は急務となった。その結果,鈴木梅太郎という学者がビタミンB1の欠乏が脚気を引き起こすことを発見。そして玄米の糠にこそそれが含まれていたのだった。パンの原料である麦や蕎麦にはビタミンBが多く含まれる。だから西洋には脚気がなかったのだ。

 さて寄り道京急本線,まずは終点の浦賀に一気に飛んで,次回は日本海軍ゆかりの地を訪ねてみる。