You ain't heard nothing yet!

ある社会科講師の旅の回想録

You ain't heard nothing yet!(お楽しみはこれからだ!)

東海道をゆく⑥~ちょっと寄り道 京急本線・久里浜線~

本日天氣晴朗ナレドモ浪髙シ

戦艦三笠より打電

 

浦賀

 京急本線は浦賀駅が終着駅であるが,黒船来航地へは堀ノ内で久里浜線へ乗り換え,久里浜駅で下車する方がよい。このことを知らなかった,土地に不案内な私は一端浦賀まで出てから,引き返すという羽目になった。まぁこんなことはままあることである。

 浦賀(久里浜)はいわずと知れたマシュー=ペリー来航の地である。1853年(嘉永六年)アメリカ東インド洋艦隊司令官であったペリーは,日本を捕鯨船の寄港地とするため大統領フィルモアの親書を携えて,浦賀に現れた。旗艦サスケハナ以下4隻の軍艦は,「黒船」とよばれ日本は夜も眠れぬ大騒ぎとなった。

太平の眠りを覚ます上喜撰 たった四杯で夜も寝られず

 という狂歌はあまりにも有名であるが,実際4隻のうち,蒸気船は旗艦サスケハナ及びミシシッピの2隻のみで,残り2隻は帆船であった。それでも臨戦態勢で臨む大砲は,当時の人々を不眠にさせるに十分な数であった。

 もう一つ勘違いされることがある。ペリーは太平洋を渡ったのではない,東廻りに大西洋,アフリカ南端,インド洋,南シナ海,東シナ海を経て,約8ヶ月の航海の後,浦賀にたどり着いた大航海であった。

久里浜海岸

ペリー上陸の記念碑

ペリー記念館

ペリーの航海

旗艦サスケハナ(手前)とミシシッピ号

 

 翌年(1854),再来日したペリーと江戸幕府との間で日米和親条約が結ばれる(神奈川条約)。時の老中首座は阿部正弘,全権は林家当主:林大学頭(だいがくのかみ)復斎であった。「日本は島国であるが,海洋国家であったことはこれまでなかった,あるいはその歴史は実に浅い」と何かで読んだことがある。目から鱗の記述であったが,誰のどの言であったか定かでない。その日本はこのとき海洋国家としての一歩をようやく踏み出した。



・横須賀

 開国した日本の急務の1つは海防の強化であった。つまり海軍の創設である。手始めに江戸幕府が,本格的には明治政府がそれを継ぐ。開国からちょうど半世紀経った1904年に日露戦争が勃発する。

 翌1905年,ロジェストヴェンスキー率いるロシアのバルチック艦隊を,東郷平八郎連合艦隊司令長官指揮する旗艦三笠以下,帝国連合艦隊が対馬海峡で迎え撃った。

 東郷平八郎は薩摩藩士であった。20歳のときに明治維新を迎える。まもなくイギリスへ官費で留学し,西郷の死を帰国途中で知った。私は西郷をあまり評価しない人間であるが,天命というものがあるとしたら,東郷がこのとき日本にいなかったことがそれであろう。さもなくば東郷は西郷の下にあったかもしれない。西郷がいなくても維新はいずれなったかもしれないが,東郷なくしては日露戦争の勝利はなかったかもしれない。(大きいことを言っておりますが,私は明治維新の専門家ではなく研究者としてはド素人ですのでご容赦を)

 東郷の作戦は,バルチック艦隊の撃退でもウラジオストクへの入港を阻止するものでもなく,敵艦の殲滅であった。敵艦発見の報を受け,三笠は大本営に向かってこう打電する。

敵艦隊見ユトノ警報ニ接シ聯合艦隊ハ直チニ出動、コレヲ擊滅セントス。本日天氣晴朗ナレドモ浪髙シ

 後半の「本日天氣晴朗ナレドモ浪髙シ」は三笠に作戦参謀として赴任していた秋山真之が加えたものとされる。「天気晴朗」であることは,敵艦を見失う可能性が低いこととともに,「波高し」は小型艇(水中爆破兵器を兵装とした水雷艇)の出撃が難しいことを端的に示していた。戦艦同士のガチンコの打ち合いで雌雄が決するわけである。

 両艦隊の距離が縮まる。高い波の上,東条は三笠の船橋に立ったまま双眼鏡を手にその時を待つ。やおら東条は右手で合図を出す。「取り舵一杯」参謀長加藤友三郎の掛け声とともに三笠が左に大回頭を始めた。のちに「東郷ターン」とよばれ,世界を驚愕させた作戦の始まりである。

 船は転針中,速度が落ちる。さらに戦ならば敵に横腹をみせることになり不利な状況に追い込まれる。三笠は自らおとりとなり敵の絶好の餌食となったわけである。東郷は三笠を犠牲にしてでも敵の殲滅する覚悟であった。このまま両者すれ違いのまま砲撃戦となれば,敵艦の多くはウラジオストクへ逃げおおせる可能性が高く,再起を許すことになる。東条の目的はあくまでも敵艦の殲滅であった。三笠は敵の砲撃を受けながらも,追随する艦隊の回頭の時間稼ぎを請け負った。「丁(T)字戦法」,横並びに整列した連合艦隊が,縦列のロシア艦隊の頭をおさえる陣形が成った。これで連合艦隊はすべての砲門をロシア艦隊に向けることができたのである。(船首を向けた状態では前方の砲門しか向けることができない)勝負は30分ほどで着いた。無事ウラジオストクへ逃げおおせたのは全40隻中,3隻ほどであったという。

 京急横須賀中央駅から北に徒歩15分。港に復元された「三笠」が係留され,内部が展示されている。船橋に立つと当時の指揮官の面々の立ち位置が印されており,そこに立つと何だか武者震いする。日本が海洋国家としてその名を刻む瞬間があったとすれば,唯一日本海海戦であったのではないか。

戦艦三笠

東郷らが立った船橋(ブリッジ)

東郷の立ち位置

Z旗

もはや全国区(?)


・安針塚

 京急安針塚駅から南へ徒歩10分。塚山公園内に三浦按針の墓(供養塔)がある。本名はウィリアム=アダムズというイギリス人であった。1600年,豊後(大分)の臼杵湾に漂流したオランダ船リーフデ号の船員で,同船乗組員ヤン=ヨーステン(オランダ人)とともに徳川家康の外交顧問を務めた。

 この偶然の漂着によってオランダ人とイギリス人が家康の知己を得たことは,今後の日本にとっての幸運であった。こののちイギリスが極東から撤退したのちも,オランダは以後200年間,日本が見失わなかった唯一の文明の灯,道標となった。長崎にオランダ人がいなかったらと考えると,西郷がいなかったらと考えるよりずっと背筋が凍る思いである。幕末から明治初頭における日本の海軍創設にはオランダの技術と人材が欠かせなかった。

 ウィリアム=アダムズはというと家康の死後は,重用されず不遇のまま平戸(長崎)で一生を終えた。横須賀市のこのあたりに領地があったことから供養塔が建てられたとされる。

 

・金沢

 京急金沢文庫駅から西へ徒歩10分。金沢文庫がある。現在の地名(金沢区)は駅名も含めて「かなざわ」と読むが,「かねさわ」が本来の読みである。鎌倉中期に北条実時が自らの蔵書を収めるために建てた武家最古の文庫である。

 北条家本家は二代執権北条義時の嫡流で,義時の別称:得宗にちなんで得宗家といわれ,執権職はこの得宗家がほぼ独占してきた。その傍流がここ金沢の地に本拠を構えたことから,実時の一族は金沢家と称することもある。14代執権,高時(得宗家)の後を継いだ北条貞顕はこの金沢家の出であったが,時に幕府は滅亡に傾いており,金沢の一族もまた滅亡。金沢文庫もまた廃れていき,その蔵書は散逸する。

 北条実時は,8代執権時宗の側近として,一度目の蒙古襲来(文永の役 1274)に対処した。その子実政は二度目の弘安の役(1281)において総司令官として幕府軍を指揮。

皇国の興廃この一戦にあり、各員一層奮励努力せよ

とは東郷平八郎が海戦にあたって艦隊の士気を鼓舞した言葉だが,金沢父子もまたこれに近い言葉を発していたかもしれない。日露戦争の約600年も前に,ロシアより強大な帝国相手に危急存亡の秋(とき)を凌いだ一族であった。

現在の金沢文庫