思うに,外郎餅は羊羹の属で,外郎とは相模小田原の人の名である。
『和漢三才図絵』
小田原駅は小田原城とその城下付近あり,東海道の宿場からはやや離れる。小田原城をぬけて城外南側に点在する。街道沿いには城を模した建物が目につき,名物のういろう(外郎)店である。


小田原はういろう発祥の地の1つといわれることがあるが,根拠に乏しい。江戸中期の博物書『和漢三才図会』の造醸類(平凡社東洋文庫『和漢三才図絵18』)に「外郎(ういろう)」が掲載されており,
思うに,外郎餅は羊羹の属で,外郎とは相模小田原の人の名である。透頂香丸(とうちんこうがん)を製造して売り,名をあげたので,ついにこの人の名は薬の名となった。
とある。「透頂香」は中国由来の制汗薬であるが,菓子のういろうとどう関係があるのかなどはわからない。ただういろう店の向かいに小西薬局という創業が江戸時代初期(寛永年間)という薬局があり,むしろこちらの方が丸薬「透頂香丸」とは関わりが深い気がする。


『東海道中膝栗毛』にも名物ういろうを食べて,餅かと思ったら薬じゃないかと面食らうシーンがある。
ういらうを餅かとうまく騙されて こは薬じゃと苦い顔する
土産物に困ったら覚えておくとよい。
小田原の次は箱根宿であり,難所越えのため旅人は入念な準備を整え,英気を養う必要があった。弥次喜多の二人もここで宿を取り,風呂で疲れを癒す。関東者の二人は五右衛門風呂の入り方を知らず,二人はそれに手こずる。このシーンは中々面白い。
私もこの日は小田原城の近くに宿をとった。次の日は箱根越えである。
☆寄り道
・小田原城
遡るときりはないが,一般に北条氏の居城であったことで知られる。北条氏といっても,この北条氏は鎌倉時代の北条氏とは全く関係がないといってよい。初代は北条早雲の名で通っている。本名は伊勢新九郎盛時といった。応仁の乱(1467~)後の下剋上の先駆けといわれるが,伊勢氏といえば,本姓は平氏で室町幕府では政所(政務を司る)の執事(長官)を務めた家柄で,身分としてはそこそこの家格である。
しかしこの伊勢新九郎が,関東に下向して一代で関東の覇者となったのは確かなことで,嫡男氏綱のころに北条を名乗った。北条早雲ものちの呼称であり,「北条」を名乗ったのも,周囲の武田・上杉,今川といった名門に対等に渡り合うための箔付けであったのだろう。歴史的には鎌倉の北条氏に対して「後北条氏」と呼ぶこともある。
後北条氏の下,小田原城は難攻不落の無敵の城として恐れられたが,豊臣秀吉の小田原征伐によって無血開城を余儀なくされた。軍勢の有利もあったが,何より秀吉は攻城戦の名手であった。このとき城内では徹底抗戦か降伏(和睦?)かの議論が繰り返されたが,結論がいつまでもでなかったことが「小田原評定」という言葉で現代に残っている。
関東平定によって秀吉の全国統一は達せられたが,秀吉は関八州250万石を徳川家康にあっさりと譲った。このときの秀吉の石高は200万石,家康に対するこの気の使いようには瞠目するが,国替えを迫られ,辺鄙な土地に追いやられたこのときの家康の心境は果たしていかがなものであったろう。
ともあれ,後の世は家康のものとなる。小田原は東海道の要所であり,難所箱根の関の守護でもある。小田原城を任せられたのは譜代大久保忠隣(ただちか)であった。以後一時を除いて大久保氏がこの城を代々任されることになる。


・早雲寺
JR小田原駅から箱根登山電車に乗り換え,箱根湯本で下車。徒歩15分ほどのところに早雲寺がある。箱根湯本駅周辺は観光客であふれかえっているが,川(早川)を渡ると静かなものである。閑静な住宅街の中の早雲寺はさらに輪をかけた静けさであった。日本屈指の観光地であるはずだが,ここには受付もなければ,拝観料の徴収もない。後北条氏二代氏綱が創建し,初代:早雲から五代:氏直までの墓所となっている。ついでといってはなんだが,室町時代の連歌師:飯尾宗祇の墓もここにある。



後北条氏五代の墓

宗祇の墓