ルイ14世は即位するとまもなく,ルーヴル・テュイルリとは別の場所に居を構えている。それがパリ1区のもう1つの宮殿,パレ・ロワイヤルであった。もともと先代ルイ13世の宰相リシュリューの館であったが,リシュリューの死後王室のものとなった。(「パレ」は「パレス」(王宮・宮殿),「ロワイヤル」は「王室」)ルイ14世が王となったのはわずか5歳であった。そのため政務の一切はマザランが担った。当時ヨーロッパでは三十年戦争が続いており,フランスの財政も潤沢ではなかった。マザランは強引な課税政策をとるが,これに対してパリで民衆と貴族が蜂起。歴史上「フロンドの乱」として知られる。反乱は鎮圧されるが,ルイ14世はパレ・ロワイヤルを追われ,地方を点々とすることになる。
フロンドの乱は幼王のトラウマになった。ルイ14世の中にパリに対する不信感と恐怖を植えつけた。再びパリに戻ったルイ14世はパレ・ロワイヤルに戻ることはなく,ルーヴル宮で青年時代を過ごすことになった。フロンドの乱の鎮圧は一方で,王権の強大化につながった。乱の鎮圧はすなわち貴族階級の押さえ込みに成功したということでもある。ルイ14世といえば「朕は国家なり」だが,この言葉はルイ14世が乱を鎮圧してパリに帰還したときの言葉だったともいう。(創作説もあり。)
その後ルイ14世はリシュリュー,マザランのような摂政を置かず親政をはじめるが,このときに登用した財務大臣が大当たり。ジャン=バテイスト・コルベールであった。コルベールの財政政策の成功は,ルーヴル,テュイルリの増改築再開にもつながった。工事が早く終わったテュイルリにはルーヴルからルイ14世が移り住み,着工以来王室が寄り付かなかったテュイルリははじめて宮殿として機能しはじめたのである。
しかし同時にルイ14世には新たな野望が芽生えていた。新しい宮殿の建設である。パレ・ロワイヤル,ルーヴル,テュイルリ,パリ1区の宮殿たち。ルーヴルとテュイルリにいたっては両宮殿があわさることにより,ヨーロッパでも類をみない壮大な宮殿となった。それでもルイ14世はそれらを捨てようとしたのである。
1つはルイ14世が根本的にパリに心を許していなかったということ。1つは彼が狩猟好き,森好き,田園好きの性分であったこと。そして1つは他人のおもちゃを欲しがったことである。これはコルベールの前の財務大臣の邸宅がルイ14世にとっては,許せないぐらい見事な邸宅だったようだ。この邸宅に心を奪われたルイ14世は,この財務大臣を汚職の罪で更迭,後任にコルベールをあてた。国王の心を奪うまでの邸宅を建てるほどの財力は汚職以外にないということであるが,嫉妬のあまりの処置ともいえる。(結果的にコルベールの登用は正解だった)
ともあれ自らパリ郊外に思うままに大宮殿を造りたいという欲求に駆られたルイ14世はやがてルーヴル・テュイルリに目もくれず,新宮殿建設に意欲を費やす。その宮殿こそヴェルサイユ宮殿であった。テュイルリを出たルイ14世は,もうパリに戻ることはなく,やがてルーヴル宮の増改築も途中のままで放置された。
私の手元に1735年,ルイ15世当時のパリの鳥瞰図がある。「テュルゴーの地図」とよばれる当時のパリ市長が作らせた地図であるが,シテ塔の下向いにルーヴル宮がみえる。その屋根が未完成のままであるのがわかる。(このテュルゴーは有名な同時代のフランスの経済学者ジャック=テュルゴーの父)
こうしてフランス王室が再びパリに戻ってくるのは,フランス革命勃発後,ルイ16世の時代になってからのことである。半ばテュイルリ宮殿に幽閉状態にあったルイ16世とその妻マリーアントワネットら家族は1791年,このテュイルリを脱出。ルイ16世もまたパリを信用していなかった。17世紀以降,パリは国王から見捨てられた街となり,最後は国王もパリから見捨てられた。1793年,テュイルリ庭園前のコンコルド広場(革命広場)での王とその後の王妃の処刑は,この関係のクライマックスを示している。