You ain't heard nothing yet!

ある社会科講師の旅の回想録

You ain't heard nothing yet!(お楽しみはこれからだ!)

ルーヴル=リヴォリ駅~メトロ1号線⑨~

 パレ・ロワイヤルからルーヴル・リヴォリ駅までには,ぼやっと歩いていると見逃してしまう小径がある。「ギャルリ・ヴェド=ロダ」とよばれる,通り抜けできるのさえ不安になるその細道は,フランス語で「パサージュ」という。英語でも綴りは同じ「passage」だから通路・通り抜け。やはり小径である。そこらの小径と違うのはガラスの天井で覆われているところである。日本でいうところのアーケード付商店街だが,道幅はずっと狭く,かといって中東のスークやバザールのように迷路状に広がってもいない。決して人通りは多いとはいえないが,シャッター通りというほども寂れておらず,そこに足を踏み入れた瞬間まるで1世紀はタイムスリップしたような気分になる空間である。

 19世紀の初めごろ,このようなパサージュはパリのあちこちに形成された。パレ・ロワイヤルが発祥だといわれる。フランス革命前,パレ・ロワイヤルの持ち主であったオルレアン公はコの字型のアーケード付の回廊を店舗として貸し出し,これが大盛況となる。しかし革命後,アンシャン・レジーム(古い体制)が崩壊したのち,この場所に娼婦たちが寄り付くようになった。それを目当てに客もまたが集まった。

 1830年,パリの改造者オスマンの先駆者ともいうべきルイ=フィリップが七月革命で王となると,フィリップはパレ・ロワイヤルから娼婦を一掃しようと試みる。仕事場を失った娼婦たちが新天地として選んだのがパサージュであった。

 1830年代はフランスの産業革命の時代である。鉄が大量に生産され,その加工技術が発展した。屋根に鉄骨が使用されると,鉄枠にはめ込むガラス加工の技術も発展した。また1870年代までは道路は馬車が中心であった。歩道は細くて体を寄せ合わなければならなかった。まだ道の舗装が十分でなかった当時,雨風をしのげる屋根付きの路に人が集まるのは当然であった。パサージュは悪天候からもまた馬車からも遊歩者を守ってくれた。(『パサージュ論』)

天井からの光を受けたショーウィンドーに美しく陳列された商品に,形成されつつある労働者階級の購買意欲がそそられた。お金を使わないまでもフラフラとただ無目的に遊歩する人も現れる。そのような人々を目的に娼婦たちも集まる。ゾラの小説『居酒屋』・『ナナ』の舞台となっていたのが当時のパサージュ(パサージュ・デ・パノラマ)であった。『居酒屋』の主人公ジェルヴェーズの娘『ナナ』は,パサージュの光に魅せられる。

 

ナナはパノラマ街が大好きだった。擬いの宝石や金鍍金した亜鉛や,ボール紙で出来た模造皮など,パリの安ぴか物に対する少女の頃の情熱が,まだ彼女には残っていた。この街を通ると,昔ぼろ靴を引きずり歩いていた悪戯盛りの頃のように,陳列棚の前を離れることが出来なかった。(『ナナ』上 エミール=ゾラ 川口篤・古賀昭一訳 新潮社)

 

 

 

 モード(流行)の波に乗って一儲けしようとパサージュ建設を決めた肉屋まで登場する。ヴェドとロダ,ギャルリ・ヴェド=ロダはこの二人の名からである。通りをギャルリ(ギャラリー)と名づけることで高級感も出している。

 ギャルリ・ヴェド=ロダはパレ・ロワイヤル近くのジャン・ジャック・ルソー通りとブロワ通りを結ぶ50mほどの狭いパサージュである。パサージュを挟む2つの通りには馬車の発着所があり,ブルジョワ(市民)階級の溜まり場パレ・ロワイヤルから近いという立地も考え抜いての設置であった。ギャルリ・ヴェド=ロダは狙い通りの大繁盛となる。

 やがてパサージュは1850年代からのパリ大改造によって大通りが整備されると客離れが相次いだ。前項でも述べたようにオスマンの改造は都市空間を広げることであった。パサージュの狭さから大通りの広さへ。閉から開へ,そして暗から明へのコンセプトの下,百貨店が登場するのである。パサージュは斜陽の時代に突入した。

世界初のデパートはパリのボンマルシェであるといわれるが,多分,ボンマルシェやプランタンといったデパートの老舗に入ったとしても,さほど違和感はないであろう。パサージュに入るとタイムスリップしたようになると最初にいったのはそういうわけである。