You ain't heard nothing yet!

ある社会科講師の旅の回想録

You ain't heard nothing yet!(お楽しみはこれからだ!)

パレ・ロワイヤル=ミュゼ・デュ・ルーヴル駅~メトロ1号線⑧~

パレ・ロワイヤル=ミュゼ・デュ・ルーヴル駅

 さてヴァンドーム広場より北に伸びる平和通りは,高級ジュエリーの名店が軒を並べる。目の保養をしたい人にはおすすめだが,私にとっては豚に真珠。これ以上は北に進まず,再びカスティリオーネ通りを南下してリヴォリ通りに出ることにする。

 リヴォリ通りに出たところで東に進むと「アンジェリーナ」がある。ここでは恐るべきモンブランをみることになるだろう。そのまま進むとルーヴルの両翼の1つ,北側のリシュリュー翼が見えてくる。さらに東に進むと左手にパレ・ロワイヤルが現れる。パレ・ロワイヤルの柱廊は『シャレード』(1963)のクライマックスでヘップバーンが逃げ回ったところである。

 パレ・ロワイヤルをあとにして,リヴォリ通りをわたるとそこはルーヴル博物館。正面の入り口にはあのガラスのピラミッドみえてくる。そこから西側を振り返れば,すぐに目につくのがカルーゼル凱旋門。これもやはりナポレオンによって建設されたが,エトワール凱旋門に比べると半分ぐらいの大きさである。

 現在はこの凱旋門からテュイルリ庭園を見ることができるが,本来その間に建っていたのがテュイルリ宮殿であった。テュイルリ宮殿は普仏戦争後のパリコミューンの騒ぎでダメージを負って外壁だけが残った。再建も検討されたが1883年に外壁ごと取り壊された。岩倉使節団がパリを訪れたのはちょうどその間のことで,久米邦武の『米欧回覧実記』にはこのように書かれている。

 宮殿から振り返ってみれば,コンコルド広場のオベリスクの先端ははるか彼方の凱旋門を貫くようであり,その景色のすばらしさは言いようがない。

 

 

 パリが現在のパリの姿となったのは,19世紀の中頃のことである。自動車を除けば,150年前の岩倉遣欧使節団が見た風景と私たちが見る風景に大きな違いはない。パリ大改造が実行に移されたのはフランス史でいう第二帝政とよばれる時期である。帝政であるから皇帝の治世である。第一帝政はナポレオン1世(1804~1814)。続く第二帝政はその甥,ナポレオン三世(1852~1870)を指す。

 ナポレオン1世こと,ナポレオン=ボナパルトはフランス領コルシカ島出身であることはよく知られるが,フランス領となったのは彼が誕生した年のことで,それまではイタリア領であった。ボナパルト家もイタリアに起源を持ち,イタリア内の二大勢力のうちの教皇派(ゲルフ)に属し,自らを「良き一派」,英語でいうなら「good part」と呼んだ。これがイタリア語で「ブオナパルテ」である。フランス領となった1769年,猛々しくもイタリア語で「ナポレオーネ(ナポリの獅子)」と名づけられた子どもは,やがて自らフランス風に名乗ることでフランス人としてフランスを守るために戦い,フランス皇帝にまで登りつめた。ヨーロッパにおける皇帝とは,ローマ皇帝の後継者にして,王の上に立つ者,キリスト教世界の盟主を意味する。

 1世の失脚後,フランスの政体は二転三転するが,1852年にフランス国民に圧されて合法的に帝位に就いたのが,1世と同じナポレオン=ボナパルトの名をもつ3世であった。孫ではなく甥にあたる。区別するためルイ=ナポレオンと呼ぶこともある。たびたびロンドンでの生活を経験したルイ=ナポレオンは,パリとは比較にならないほど整備され進歩していたロンドンに嫉妬したことであろう。滞在中イギリス人からパリの悪口を散々耳にもしたであろう。権力の座に就いたナポレオン3世は早速パリの大改造に取り掛かる。「パリを世界一の都市にしてやる。」「ロンドンを見返すのだ。」と言ったかどうかは分からないが,忸怩たる思いを内に秘め,彼はその腹心とでもいうべきセーヌ県知事オスマンの協力を得て,無秩序で不衛生なパリを一掃する。

 19世紀中ごろまでのパリは建物どうしの間隔が狭く,細い小道が多かった。つまり日当たりが悪いこと。風通しが悪いこと。そして排水が悪いの3悪を備え持っていた。1830年代には産業革命が進展し,労働者階級が形成されると人口増加が劣悪な環境に拍車をかけた。暗く悪臭漂う世界では異常な犯罪者が多発した。そのころパリ警視庁の捜査官であったフランソワ=ヴィドックは,前歴が犯罪者というところを買われて警察に協力するようになったのだが,その回想録(『ヴィドック回想録』の中で当時の異常犯罪について克明に記録している。また『パフューム ある人殺しの最物語』(2006)という映画では,「パフューム(香水)」を巡り,猟奇的連続殺人犯の生涯を香水とは対照的な当時の悪臭漂うパリを背景に描いている。

 ともかく「道」の整備が急務であった。地下においては上下水道を,地上においては道路の拡張である。道路については拡幅するだけでなく,努めて直線化することを目指した。凱旋門を中心に同心円上の道路を走らせ,12本の大通りを同一の角度で放射状に伸ばす。主要地点となる広場は斜交路で結びつける。パリの大きな通りは直角ではなく斜めに幾本かが交差している。映画などでパリでのカーチェイスシーンが面白いのはそのためであろう。公園や並木道を整備し,緑化とともに空気の浄化も試みられた。建物の高さも規制された。

 オスマンの手による大改造はナポレオン3世の治世の間続けられる。経済も活性化し,1855年,1867年とその治世のうちに2度の万国博覧会がパリで開催された。ドイツの批評家ヴァルター=ベンヤミンは『パサージュ論』の中(第1巻)で,パリを「19世紀の首都」と呼んでいる。パリは近代都市計画の手本となった。

 

二月六日に私はミュンヘンを後にし,北部のイタリアのいくつかの文書館に一〇日間滞在してから,豪雨の中をローマに到着した。私がそこで見出したのは,町のオースマン化がさらに進んでいたことである。(『パサージュ論』フェルディナント・グレゴロヴィウスの書簡より)

 

 

 ナポレオン3世によるパリ大改造には,公衆衛生や治安の観点の他にもねらいがあった。ナポレオン3世は,民衆の支持を受け,民衆を味方に付け皇帝の地位に就いたが,心底では民衆を恐れてもいた。フランス革命以後半世紀以上,民衆は幾度も立ち上がり,為政者側からみれば暴動・反乱を繰り返した。彼らに最も力を与えたのは何よりもパリの街自身であった。その入り組んだ小道は,バリケードの設置を容易にし,兵器に勝る鎮圧軍を手こずらせた。『レ・ミゼラブル』(ヴィクトル=ユーゴー)は幾度となく映像化されたが,七月革命(1830)のバリケードシーンは,いずれもクライマックスにふさわしい盛り上がりをみせる。それは抵抗の象徴であった。

 道幅を広げことによってバリケードを無力化する。斜交路は主要地点を最短距離で結ぶことで鎮圧軍兵の移動を容易にする。(三角形の斜辺を考えればよい。) 隠れたねらいがそこにあった。以下ヴァルター=ベンヤミンの『パサージュ論』の中の「19世紀の首都」から引用する。

オースマンの事業の真の目的は,内乱に対してこの都市を守ることであった。彼はパリ市内でのバリケード構築を未来永劫にわたって不可能にしようとしたのだ。すでにルイ=フィリップも,こうした目的で,木煉瓦舗装を導入している。にもかかわらず二月革命においてはバリケードがある役割を果たした。エンゲルスはバリケード闘争の戦術に取り組んでいるが,オースマンはこれを二重の方策で阻止しようとする。つまり,道路の幅を広げてバリケードの構築を不可能にし,兵営と労働者地区を最短距離で結ぶ道路を作ろうとするのである。当時の人々は,この企てに「戦略的美化」とう名を与えている。