You ain't heard nothing yet!

ある社会科講師の旅の回想録

You ain't heard nothing yet!(お楽しみはこれからだ!)

ミラボー橋

 ジャヴェル駅の目の前,セーヌ川に緑色の鉄骨橋が架かっている。ミラボー橋である。フランス革命最初期の主人公の1人ミラボーの名にちなんでいる。ミラボーは自身が特権貴族階級にもかかわらず,第三身分(平民)代表として議会に席を置き,1789年の大革命では平民身分が結束した国民議会を指導して,人権宣言制定に尽力した。ミラボー自身はイギリスのような立憲君主制をめざしており,王政廃止を訴える過激派を懐柔するのに奔走した。国王ルイ16世にとっては,国民と王室との間をとりもってくれる貴重な相談役でもあった。が1791年,病に倒れる。その結果,あの事件がおこる。

 強力な後ろ盾を失ったルイ16世は,これ以上の革命の進展を恐れて妻マリー=アントワネットの実家オーストリアを頼り,パリを脱出して亡命を企てた。ヴァレンヌ逃亡事件としてしられるこの事件は未遂に終わったが,王室は国民の信頼を完全に失った。議会では共和派が優勢となる。ブルボン王朝の運命はここに決した。

 さてミラボー橋の真ん中に建って上流側(北西)をみてみると,2つのものが目に入る。1つは1つ向こうの橋(グルネル橋)のたもと,セーヌ川の中洲に立つ自由の女神像。もう1つはエッフェル塔である。

 「自由の女神」といえばニューヨークだが,ニューヨークのリバティ島の女神像はアメリカ独立100周年を記念して1876年,フランスから贈られたものである。グルネル橋のたもとにあるパリの自由の女神は,フランス革命100周年を記念して1889年,パリに住むアメリカ人が贈ったものである。高さにして10mほどだから,ニューヨークに比べれば大人と子どもである。

 エッフェル塔も同じフランス革命100年後の1889年に完成した。この年に開催されたパリ万博の目玉として建設されたのである。その後1900年にもパリで万博が開かれた。この間に同じ鉄骨造りのミラボー橋も完成していた。鉄骨様式は当時の最先端技術であり,最先端デザインであった。もっとも当時のパリでは,このような奇抜な外見をよしとする意見ばかりではなかった。

 私がミラボー橋からエッフェル塔を眺めたそのさらに約100年前,同じようにこの橋の真ん中からエッフェル塔を眺めていた二人がいた。詩人アポリネールと画家マリー=ローランサン。2人はピカソの紹介で,モンマルトルの洗濯船で出会った。アポリネールは橋のこちら側パリ15区に,ローランサンは橋の向こう側パリ16区に住んでいた。パリ16区は現在でも高級住宅街の代表選手として世界中でも知られる。2人はこの橋で待ち合わせをしていたのかも知れない。そして新時代の到来を思わせる橋から塔を眺め,そこに2人の明るい将来を重ねていたのかもしれない。

 しかしやがて破局を迎える。アポリネールはローランサンとの恋を振り返り,「ミラボー橋」という詩を残している。

ミラボー橋の下をセーヌ川が流れ

  われらの恋が流れる

  わたしは思い出す

悩みのあとには楽しみが来ると

  日も暮れよ 鐘も鳴れ

  月日は流れ わたしは残る

手と手をつなぎ 顔と顔を向け合おう
  

   こうしていると
 二人の腕の橋の下を


疲れたまなざしの無窮の時が流れる

  日も暮れよ 鐘も鳴れ
 

   月日は流れ わたしは残る

流れる水のように恋もまた死んでゆく
  

   命ばかりが長く
希望ばかりが大きい

  日も暮れよ 鐘も鳴れ
 

   月日は流れ わたしは残る

日が去り 月がゆき
 

   過ぎた時も
 昔の恋も

  二度とまた帰ってこない

 ミラボー橋の下をセーヌ川が流れる

  日も暮れよ 鐘も鳴れ
 

   月日は流れ わたしは残る  (『アポリネール詩集』新潮社 堀口大學訳)

 

 

 この詩はのちに曲がつけられシャンソン(歌)となった。詩に漂う無常観は日本人の心にも響きやすいのではないだろうか。たぶんシャンソンはアメリカのロックやジャズよりずっと日本人に合っているのではないだろうか。Les jours s'en vont , je demeuret(月日は流れ わたしは残る)
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