You ain't heard nothing yet!

ある社会科講師の旅の回想録

You ain't heard nothing yet!(お楽しみはこれからだ!)

映画

チョロン~ベトナム紀行⑮~

チョロン地区へいく。マジェスティックからだと南西に5~6㎞のところ,ホテル前からタクシーを捕まえて行くのだが,支払いはベトナムドンになる。運転手にあらかじめいくらぐらいかかるかと尋ねておく。あとでトラブルにならないための海外での常識である。…

ドイモイ~ベトナム紀行⑭~

パリ・コミューン広場に面して中央郵便局がある。この建物もまた大聖堂と同時期に建てられたコロニアル建築である。その門構え,内部の天井のアーチや接客窓口などはヨーロッパの駅を思わせる。奥にはホー=チ=ミンの写真(? 肖像画であったか?)が飾られ,…

カトリーヌ=ドヌーヴ~ベトナム紀行⑪~

第一次インドシナ戦争を題材にとった映画には『インドシナ』(1992)というフランス映画がある。こちらはカトリーヌ=ドヌーヴ主演ということで飛びついた。彼女が若いころ主演した『シェルブールの雨傘』(1964),『ロッシュフォールの恋人たち』(1967)は私が…

コンチネンタル・サイゴン~ベトナム紀行⑩~

マジェスティックはホーチミン市の目抜き通り,ドンコイ通りの南東の端にある。まずはこの通りを北西に歩く。通りはカフェやブティック,雑貨店など旅行者向けのショッピングストリートになっている。建物はたいてい3~4階建で圧迫感はない。通りの両サイド…

アメリカの撤退~ベトナム紀行⑤~

大学の二次試験を終えたあと,そのまま大阪梅田の映画館に立ち寄って見たのは『7月4日に生まれて』(1989)であった。映画好きではあったが,奈良の田舎出身の私の近くに映画館はなく,大阪まで出ないとロードショーをみることはできなかった。深夜を含めてテ…

戦争映画のステレオタイプ~ベトナム紀行④~

アメリカ人,ベトナム人両者の生き地獄が8年間続く。アメリカ兵の中には精神に異常をきたすものもいた。多くの兵が帰国してなお,その後遺症に悩まされた。ベトナム戦争を題材にとった映画の多くは,崩壊していくアメリカ兵の精神状態に焦点があてられている…

アメリカの介入~ベトナム紀行③~

ジュネーブ休戦協定,これにベトナム国とアメリカは署名しなかった。ソ連と冷戦を争うアメリカにとって共産主義勢力の拡大には同意できるはずがなかった。アメリカはすぐさま,フランスに代わって南ベトナム(ベトナム国)を支援。フランス傀儡のバオ=ダイに…

西部戦線異状なし~ヴェルダン②~

1916年2月,ここヴェルダンでドゥオモン要塞を巡って第一次世界大戦最大の会戦が繰り広げられた。侵攻してきたドイツ軍をフランスが迎え撃つ。しかしドイツは一方でロシアとの戦いも強いられていたため,ヴェルダンの戦いは12月に終結する。結局両者とも戦前…

Über den Rhein(ラインを越えて)

大聖堂をあとに,その足をさらに西へと進めてみる。少し時間がかかるがやがて大きな川に出る。ライン川,向こう岸はドイツである。いくつか橋がかかっているようだが,私が訪れたときはまだ橋の通過にはパスポートが必要だった。現在は出入国管理はおこなわ…

岩山の黒い聖母~ルピュイ~

リヨンからルピュイという町を訪ねる。「ピュイ」とはフランス語で「丘」を意味する。リヨンからルピュイまではサン=エチエンヌで乗り換えてローカル線で2時間半。降りるとその町名に納得する。むき出しの岩山が地面から突き出している。それだけではない,…

『パピヨン』がよかった

カヌビエール通りを抜けると,マルセイユの顔というべきベルジュ埠頭に出る。所狭しとヨットやクルーザーが停泊している。埠頭には朝から漁師がとってきた新鮮な魚を売る朝市が立つようだが,私の行った午後の時間帯にはもう魚を売る人は1人もいなかった。 …

フレンチコネクション

マルセイユのサンシャルル駅は町を見下ろす高台にある。ホテルは駅のすぐ隣にあるArcadeというところにすぐに決まった。(現在はIbisホテル)駅至近にホテルをとるのは,列車移動に便利なのと,駅には食堂が集まっているため,食いっぱぐれることがないからで…

サンジェルマン~セーヌ左岸①~

セーヌ左岸に宿泊したのは,ロンドンから鉄道で海峡を越えてパリに立ち寄ったときであった。到着駅パリ北駅からRER:B線でシテ島向いのサンミシェル・ノートルダム駅で降りる。翌日はシャルル=ドゴールから空路帰国する予定であったため,空港へ直通するB…

ポン・ヌフ~シテ島④~

シテ島のもっとも西側,つまり下流にかかっている橋がポン・ヌフ。これもまた私の勘違いで,「ヌフ(neuf)」はフランス語で数字の「9」なので「第9橋」だと思い込んでいた。事実シテ島とセーヌ両岸は9本の橋でつながっている。しかし「neuf」にはもう1つ「新…

パリの空の下セーヌは流れる

「パリの空の下セーヌは流れる」というフレーズは,フランス映画(1951)からである。映画の主題歌『パリの空の下(Sour ciel de paris)』はだれもが耳にしたことがあるシャンソンの代表選手である。シャンソン界の大御所エディット=ピアフはじめ,多くのフラ…

テュイルリ庭園北界隈~メトロ1号線⑦~

コンコルド広場からテュイルリ庭園に入るとまず,左手(北側)にジュ・ド・ポーム,右手のセーヌ川沿い(南側)にオランジュリー美術館がある。モネの「睡蓮」を見たければオランジュリーに,現代写真に興味があればジュ・ド・ポームへと足を運ぶ。 「ジュ・ド・…

ジョルジュサンク駅~メトロ1号線②~

1873年(明治6年)のことである。日本から岩倉具視を代表とする遣欧使節団がパリを訪れる。その子細は久米邦武による『米欧回覧実記』に記されているが,久米がみた凱旋門やパリの姿と我々がみるパリの姿は基本的にはそれほど違いはなさそうである。 「100年ほ…

外国由来の名前も多いのです

ミラボー橋からエッフェル塔に向ってセーヌ川沿いを上流へと歩く。ミラボー橋の1つ上流の橋はグレネル橋。グレネル橋からビラケム橋までセーヌ川の真ん中に細い中州があり,白 鳥の島(小径)とよんでいる。グレネル橋の下には先ほどの自由の女神像が建ってい…

かつてはスパイ映画御用達

RERのC線ジャヴェル駅で下車。目の前にセーヌ川が,この辺りでは北西から南東に向って流れている。ジャヴェル駅周辺はかつてシトロエンの工場があった地域だ。シトロエンは第一次世界大戦後の1919年にフランスで設立された自動車会社である。大戦中アメリカ…

パリの屋根の上~モンマルトル③~

「洗濯船」前の坂道を更に登り,ガブリエル通りを東へ東へと進めば,モンマルトル最大のランドマーク,サクレクール寺院が見えてくる。 サクレクール寺院は比較的新しい教会である。隣国プロイセンとの間に勃発した普仏戦争(1870-71)の戦没者慰霊のため,19…

ムーラン・ルージュ~モンマルトル①~

サンラザール駅のホームを出て駅東側のアムステルダム通りを北に進む。突き当たりのクレシー広場から北西にクリシー通りを進む。アムステルダム通りの「通り」はrue.だがクリシー通りの「通り」はboulevardだ。Rueは一般的な小道で,パリ市内を縦横無尽に広…

シャルル=ド=ゴール空港②

シャルル=ド=ゴール空港の醍醐味はターミナル1にある。現在はターミナル2の拡張が進んでおり,主だった航空会社がターミナル2を利用している。日本人旅行者の多くも乗り継ぎ便を含めてターミナル2を利用することになるが,ターミナル間の移動はシャトルで…

パリへ

パリを母都市とする国際空港には,パリ市の北西にシャルル=ド=ゴール空港,南にオルリー空港がある。よほど奇妙な乗り継ぎ便を利用しない限り,日本からの旅行者はシャルル=ド=ゴール空港に着くことになる。シャルル=ド=ゴール空港ができるまでは,オ…

ちょっとだけルート66~ロサンゼルス⑥~

サンセット・ブルバードをさらに南に,サンタモニカ・ブルバードに出る。これがかつての国道66号線のはずである。(正確にはわからない。) 私がアメリカに渡る少し前に国道としては廃線になったらしい。西はロサンゼルスから東はシカゴに至るかつてのアメリカ…

サンセット大通りと『モダンタイムス』~ロサンゼルス⑤~

チャイニーズシアターの前の大通りは,ハリウッド・ブルバード(大通り)である。歩道には大きな星(スター)にエンターテインメント界の有名人の名を刻んだプレートがはめ込まれている。その数2000とも2500とも。「ハリウッド・ウォーク・オブ・フェイム(名声の…

カリフォルニアにも雨が降るという~ロサンゼルス④~

ハリウッドといえばチャイニーズシアターであるが,なぜチャイニーズ様式(中華風)なのか,観光する側にはよく分からない。建設したのはシド=グローマンズなる興行師だということたが,彼はこれ以前にもスペイン風のミリオンダーラーシアター,エジプト風の…

見えるのはもう青い空だけ~ロサンゼルス③~

映画産業の黎明期であった20世紀初め,業界の中心は東海岸にあった。そのボスはあの有名な発明王トーマス=エジソンである。エジソンはモーション・ピクチャー・パテント・カンパニーという企業協定(トラスト)を結成し,業界の利益を独占する。別名エジソン…

はじまりは『スター・ウォーズ』~ロサンゼルス①~

遠い昔,はるか彼方の銀河系で・・・ だれもがよく知る『スター・ウォーズ』(1977)のオープニングロール。その冒頭文である。何度見たかわからない青色のテロップ。今でもこの文字を見ると胸が高鳴る。日本での公開は1978年。その年,私は小学一年生であった…