You ain't heard nothing yet!

ある社会科講師の旅の回想録

You ain't heard nothing yet!(お楽しみはこれからだ!)

フランス料理~ロワール川②~

 オルレアンから西へはロワール川沿いに車を進める。途中レストランで昼食をとるがここまで来ると英語がまったく通じなかった。30年以上前の話である。習ったばかりの初級フランス語を駆使して尋ねてみた。「Je peux manger?(食べることができますか)」正しいフランス語かどうかはわからないが,「oui(ウィ)=ええ」という返事が返ってきてほっとした。以後「Je peux manger?(ジュ・プ・マンジェ)」はフランス語圏における私の得意技の1つとなった。

 フランス人はフランス語を世界で一番美しい言語だと思っている。そのプライドからかフランス人は英語を話せても自ら決して英語を口にしない。と聞いていた。しかしメニューから何から何までフランス語では注文する方も注文を聞く方もあまりにも具合が悪い。店に入ったのはいいものの何を頼めばよいものか乏しいフランス語単語と頭にある英単語から想像するしかなかった。結局本当は何なのかよくわからないまま注文を済ませる。出てきた料理は鶏肉をソテーしたものにソースのかかった一品。ビストロ(大衆食堂)で出される大雑把な料理ではなく,立派なこれぞフランス料理といえるものだった。鶏肉はおそらく鶏(チキン)ではなかった。それが何か聞こうとしてもわからないので辞めたが,七面鳥ではなかろうか。ソースは黄色っぽく酸味がよく効いていた。これは色の通りレモン風味だったと思う。何を食べたというわけではなく,フランス料理を食べた。若かりし私の記憶にはそれだけが残った地方のレストランでのことであった。

 さてカトリーヌ=ド=メディシスという女性がいた。この女性,史上あまりよい評判を聞かない。16世紀,イタリアのフィレンツェの支配者メディチ家に生まれたカトリーヌは,フランス国王アンリ2世のもとに嫁ぐ。そして後に歴史上有名なサン=バルテルミーの大虐殺をやってのけた。この事件は当時,キリスト教の中でもカトリック(旧教)を信仰していたフランスに広まりつつあった新しい宗派:プロテスタント(新教)を一斉に大弾圧をした事件である。この一事においてカトリーヌは歴史上屈指の悪女となってしまった。しかし別の面もある。フランス料理である。

 16世紀当時,ヨーロッパ文化の最先端はイタリアにあった。イタリアそしてそのフィレンツェはいわゆるルネサンスの発祥の地であった。食文化もまたしかりである。カトリーヌの生まれたフィレンツェのメディチ家はもともと銀行家だったこともありヨーロッパ屈指富豪であった。そのメディチ家がフランス王家と婚姻関係を結ぶ。もちろん政略結婚である。フランスはメディチ家の資金を目当てに,フィレンツェはフランスの軍事力を後ろ盾にしたい。イタリアは当時,小国が分立する戦国時代だった。

 王家に嫁ぐといっても当時文化的に後進国であるフランスという田舎にゆくわけである。父ロレンツォはカトリーヌにフランスで何不自由なく暮らせるように身の回りの世話係を一団で送り出す。食事係も当然いたはずである。

 フランスについたカトリーヌには悪い意味の驚きがたくさん待ち構えていた。例えば食事をとっても当時のイタリア以外の国では,肉は大きな塊を焼いたものが出され,味付けはほとんどされていない。それをナイフで切り分けて食べるのだが,口にするときは手づかみである。カトリーヌはこんな宮廷文化の改革に乗り出した。

 味付けをして調理した料理を小分けにした皿に盛る。そして前菜・スープ・メインと順に出し,食べるときにはナイフだけでなくフォークを使う。食後にはケーキなどのデザートを付ける。やがて17世紀,フランスはルイ14世のもとで宮廷文化の全盛期を迎える。フランス料理も様々なソースが開発され,食器が豪華になり,マナーも洗練させていった。

 ではなぜ影響を与えた側のイタリア料理はフランス料理ほど洗練されなかったのだろうか。16世紀から17世紀にかけてイタリアからみて後進国であった国々が富を求めて大西洋へ乗り出す。大航海によるアメリカ大陸やアジア・アフリカ貿易の幕開けである。イタリアの富の源であった地中海貿易は衰え,アジアとの貿易ではイスラム教徒が立ちはだかった。いわばカトリーヌはイタリアに残った最後のきらめきをその花嫁道具に包み込んで,イタリアを脱出したのだろう。そしてそれはフランスでより大きく輝くことになったというわけだ。

 その一方で,フランスの家庭料理はというとその噂は芳しくない。一般家庭におけるフランス人にとっての料理とは,買ってきた料理や食材を並べるだけと揶揄されることがある。