車を借りて,パリ郊外へと出る。目指すはロワール川の古城であるが,まずはフォンテーヌブローに寄り道する。19世紀半ば,フランスでは印象派が誕生する前段階に,自然主義・写実主義とよばれる絵画が生まれた。パリ南部郊外のフォンテーヌブローや隣村のバルビゾンを拠点としたためバルビゾン派とよばれた。彼らはこの地に広がる風景や農民の姿を写実的に描いた。「落穂ひろい」や「種蒔く人」を描いたミレーが知られる。私がミレーの作品の中もっとも好きなのが「晩鐘」である。夕刻の鐘の音(晩鐘)が鳴り響き,それを合図に農民夫婦が手を止め,祈りを捧げる。その一瞬を切り取った絵である。この絵の背景には目に映る風景だけではない。鐘の音という音がそこにある。ミレーは音を絵に描いた。その田園地帯が目の前に広がっている。
ひたすら広がるパリ盆地の小麦地帯を抜け,オルレアンまでやってきた。ここはもう村ではなく都市である。オルレアンはロワール川流域の要衝として発展した。ロワール川はフランス南部に発して北上し,オルレアンで西に流れを変え,河口のナントで大西洋に注ぐ。このオルレアンからトゥールまで,河川に沿って華麗な古城が点在しており,流域の景観は現在世界遺産に登録されているが,私が訪れたのはそれ以前のことであった。
オルレアンが史上大きく注目されたのは,あのジャンヌ=ダルクよってであろう。「神の声を聞いた」という12歳の少女が,15世紀の英仏百年戦争の最終盤,劣勢だったフランスを勝利に導いた。戦後は宗教裁判にかけられ魔女のレッテルを貼られて処刑されるわけだが,20世紀初頭には再評価され,ローマ教皇庁から列聖されている。
第二次世界大戦時,フランスはドイツ占領される。ド=ゴール将軍はイギリスのロンドンに亡命した。その地で自由フランス亡命政府を樹立。フランス国内には親ナチスのヴィシー政権があり,国旗にはいわゆるトリコロール(三色旗)が使われていた。それに対しド=ゴールは,自由フランスの国旗にトリコロールの中央の白地に赤いロレーヌ十字を加えた。ロレーヌ十字はジャンヌ=ダルクの象徴である。
オルレアンはオルレアン公爵領の首府であった。オルレアン公の地位はフランス王家の次に高く,王太子に次ぐ王家の男子に与えられた。そのため国王にとってオルレアン公は王弟や王の叔父あるいは甥という立場にあることが多かった。14世紀にフィリップ6世の2番目(一番目は王太子になる)の子どもであったフィリップに与えたのがこの地位のはじまりとされるため,名前にはフィリップと付くものが多い。ブルボン王朝期になるとよく使用されたルイという名前と合わさって,オルレアン公爵はルイ=フィリップと名乗るのが慣習となる。1830年,七月革命後に王に推薦されたルイ=フィリップもオルレアン公であったのがよく知られている。
この七月王政のルイ=フィリップはルイ16世とは従兄弟の関係にある。フランス革命前後からオルレアン家はブルボン王家とは一線を画し自由主義的な家風であったことから人気も高かった。ルイ=フィリップの父においては革命時,ジャコバン派に与し,ルイ16世の処刑にも賛成票を投じている。その後二月革命によって亡命を余儀なくされるが,このルイ=フィリップがフランス王政最後の国王ということになった。ちなみにルイ15世の摂政を務めたフィリップ(ルイ14世の甥)はアメリカのニューオリンズという都市に名前を残している。ニューオリンズは「新しいオルレアン」という意味である。