リヨンはローヌ川とソーヌ川が合流する地点に位置し,両川に挟まれている。日本では長良川と木曽川に挟まれた岐阜県羽島市がちょうど同じような形をしている。ローヌ川の定冠詞はleだから男性名詞,ソーヌ川はlaで女性名詞,リヨンはローヌとソーヌという両親から生れた子どもというわけだ。内陸において河川交通がいかに重要であるかはいうまでもない。
リヨンといえば絹織物の都市として中学時代の地理で学んだおぼえがある。絹や生糸といえばアジアの専売特許。ヨーロッパで絹織物?となんだか不思議でよくおぼえている。紀元前後,絹や生糸などの製品はシルクロード経由でアジアからヨーロッパに持ち込まれた。当時はローマ帝国のころである。しかし養蚕となると一筋縄ではいかなかったようで,その技術がヨーロッパに定着するようになったのは十字軍遠征がさかんだった12~13世紀になってからのことである。北イタリア諸都市に始まり,フランスのリヨンにたどりついたのは15~16世紀になってからのことであった。
1850年代,ヨーロッパで蚕がかかる伝染病が蔓延した。これによってヨーロッパの養蚕・製糸業が大ピンチを迎えた。折しもヨーロッパ各国が目をつけたのが,日本の良質の生糸であった。フランスも日本から大量の生糸を買い付けることになる。当時の生糸の最大の輸出港は横浜であったが,港町横浜と内陸都市リヨンが姉妹都市であるのはこのころの関係からであろう。
明治時代になってまもなく1872年,日本で最初の鉄道が東京新橋と横浜間に開通する。近代化の象徴としての鉄道開通を急いだこともあったが,関東各地で生産された大量の生糸を横浜港へ運ぶため,この路線が最初に選ばれた。また同じ年,殖産興業の一環として官営富岡製糸場が群馬につくられた。この製糸場を技術指導したのが,リヨン近郊出身のポール=ブリュナーであった。アジアに発した絹産業はまわりまわって,19世紀後半,極東の日本へと戻ってきたわけである。リヨン駅ペラーシュ駅の北側に旧市街が広がっている。街のところどころに絹織物の店がみられ,お土産物屋さんにも手作りのレースのようなものが売られている。
30年も前のリヨンで印象に残っていることは,他の都市に比べて英語が通じたことである。駅前の安宿でも,ふらっと入ったマクドナルドでも最初から英語で対応してくれた。それだけでホッとするものである。