コンコルド広場の前に広がる広大な庭園はテュイルリ庭園。さてここからパリ1区に入ることになる。パリはこの1区を中心に時計回りの渦を巻いて20の区が並んでいる。1区には3つの宮殿があった。あったというのは今は2つしかないからである。ルーヴル宮殿,テュイルリ宮殿,そしてパレ・ロワイヤル。
もっとも古いのがルーヴル宮殿で,ご存知現在のルーヴル博物館である。ルーヴルの原型がつくられたのは13世紀はじめ,国王フィリップ2世のころである。宮殿というより城砦としての役割が与えられていた。
フィリップ2世はカペー朝第7代の王で,世界史史上,第三次十字軍やプランタジネット朝(イギリス)との抗争で知られる。オーギュスト(尊厳王)とも称され,フランス王国とともにフランス王権の強大化に功績のあった人物である。
もともとカペー家はその前のカロリング朝においてパリ伯という地位にあり,パリを中心にその周辺を領地としていた。フィリップ2世は市や道路の整備,パリ大学の創設などパリの活性化に力を入れた。その1つがルーヴル城砦の建設である。
ルーヴルをフランス王宮にすると決めたのはカペー朝を次いだヴァロア朝のシャルル5世(在1364-80)であった。軍事基地から御伽ばなしの「お城」へと変身したその姿は,中世の装飾写本の最高峰ともいわれる『ベリー公の豪華時祷書』の1枚に描かれている。「時祷書」とは,キリスト教の祈祷文や讃美歌・聖務日課などを編集したものであり,その内容に合わせた挿絵がつけられる。「ベリー公の時祈書」の挿絵は,貴重な青の顔料であるラピスラズリや金がふんだんに使用されており,中世美術の最高峰の1ついわれる。その10月の挿絵の背景にみえるのが,セーヌ左岸からみたルーヴル宮であるが,現在見られルーヴル宮とはイメージがまったく異なっている。挿絵の前面に種蒔きをする女性がいる。ヨーロッパでは10月に小麦(小麦)の種をまく。刈り入れは次の年の夏である。時祷書では7月の挿絵に刈り入れの様子が描かれている。日本とは異なるヨーロッパの伝統的な年中行事を知ることができる資料である。
16世紀に入るとフランス・ルネサンス期を代表するフランソワ1世が即位する。あのレオナルド=ダ=ヴィンチとも親交が深く,「モナリザ」を買い取った王である。フランソワは数々の宮殿を点々とした人物で,その多くは現在でも名城として残っている。アンボワーズ城,シャンボール城,フォンテーヌブロー宮殿,そしてルーヴルもその1つであった。現在のルーヴルのもっとも東側の正方形の一部を建設したのがフランソワ1世。フランソワにはじまり歴代のフランス国王が改修・増築を繰り返し次第に現在の形に近づいていく。ちなみに当時のカペー家の居城(宮殿)となっていたのはシテ島にあるコンシェルジュリー(のちに牢獄として使われたことから「門番」の意味)であった。
ルーヴルの増築と平行して,ルーヴル宮の西500メートルほどのところにテュイルリ宮の建設がはじまる。創建したのはカトリーヌ=ド=メディシス。「サン・バルテルミーの虐殺」で知られる三人の国王の母であった。当時ここにはタイル工場があったため,テュイルリ宮殿とよばれた。そう「テュイル」とは「タイル」のことだ。しかし着工したのはよいものの,カトリーヌは占いでこの宮殿と自分の相性がよくないということを知ると,颯爽住居を変えてしまう。結果的にテュイルリは半ば捨てられた格好となった。
ヴァロワ朝断絶後,ブルボン王朝の初代アンリ4世は,ルーヴル宮とテュイルリ宮を繋いで大宮殿の建設に着手する。セーヌ川沿いの大回廊の建設である。太陽王ルイ14世が即位するころには2つの宮殿は繋がっていたらしい。このルイ14世も歴代王と同じくルーヴル・テュイルリ両宮殿の増改築に着手するが,彼はやがてそれを見捨てる。その理由がヴェルサイユ宮殿であった。