チョロン地区へいく。マジェスティックからだと南西に5~6㎞のところ,ホテル前からタクシーを捕まえて行くのだが,支払いはベトナムドンになる。運転手にあらかじめいくらぐらいかかるかと尋ねておく。あとでトラブルにならないための海外での常識である。しかし英語での会話は問題ないのだが,私の方でドンと円の換算がスムーズにできない。何しろベトナムドンは桁が大きい。一番高額の札は50万ドンである。現在は1ドン=約0.005円(当時は0.004円)。1000ドンで5円,100円が20000ドン,つまり1ドルがだいたい20000ドルの計算となる。
0の数が多いので,会話するときは下三桁の「0」は省くようである。慣れないとそれがよくわからない。20000ドンなら,「20」というわけである。その上でレートも考慮に入れなければならないので,こちらとしては二重三重に回路を働かせなければならない。
チョロン地区はチャイナタウンである。中国系住民,いわゆる華人が集まる地区である。華人とは現地国籍をもつ中国系住民で,華僑とは中国籍をもつ現地人を指して区別することがある。ベトナムは多民族国家であるが,人口の80%以上がキン族という民族である。中国系は全土で1%ほどであるが,その多くは南部のホーチミン市,中でもチョロン地区に集中している。東南アジアの華人の多くは商業に従事する者が多く,サイゴンは商業都市であった。久米邦武の『米欧回覧実記』には,「全府ノ人口十八万人,支那人最モ多シ,…」と19世紀末のサイゴンを記録している。
『愛人ラマン』(1992)はこの華人街が舞台であった。ベトナム舞台の映画の典型的パターンは戦争物か悲恋物,もしくはそのミックスである。前者は戦争後遺症に悩む加害国側の兵氏の心理に焦点を当て,後者は植民地化した欧米人と現地人との許されぬ恋とその悲しい結末。前者はグロテスクで,後者はエロティックな映像が見せ所となる。
『ラマン』は後者であるが,少々様相が異なる。主人公となる女性(少女)がフランス人,その相手が華人男性である。(普通は逆パターンで女性が植民地ベトナム民族)そして宗主国の女性は貧しく,植民地側の華人男性は富豪であった。さらにこれは原作者の自伝的マルグリット=デュラスの自伝的小説だという。映画は老女となった主人公が過去を回想する形。のちに『タイタニック』(1997)をみてデジャブに陥ったのが老女の回想という手法であった。『ラマン』の方が圧倒的に美しい映画であった。
私たちはチョロン地区のビンタイ市場の前でタクシーを降りた。目の前はごったがえしている。道にはバイク,バイク,バイク,ときどきシクロ(三輪自転車)。この辺りでは自動車の姿はほとんどみかけない。私たちの乗ってきたタクシーがやけに浮いていた。目につかないものは自動車だけではない。漢字である。世界各地のチャイナタウンでは街中にあふれている漢字がここではまるで見かけないのに気づく。
1975年のサイゴン陥落(解放後),南ベトナムの共産化が進むと,企業は国有化され個人資産は制限されていく。長年にわたって築いた華人の経済的地位は地に落とされた。折から同じ社会主義国である中国との関係も悪化し,79年に中越戦争が始まると華人たちは海外へ脱出し始めた。私が子どものころよく耳にしたベトナム難民,ボートピープルとよばれた人々の多くが華人たちであった。ベトナム当局は華人文化や教育にも制限を加え,漢字の看板も規制されたのである。近年のドイモイ政策により帰国者は増加しているという。商業に長けた華人の経済力とネットワークはベトナムの発展に欠かせない存在なのだろう。
ガイドブックによると市場には2000以上の店舗があるという。市場の中だけなく,その周囲も小さなお店が並び,買い物客でごった返している。あまりの喧噪に飲み込まれそうになったので,中をゆっくり散策という気分にもなれず,一先ず市場見学はやり過ごすことにした。近くのチャータム教会に向かって歩く。
それにしても行き交うバイクの多さには参る。道を横断するのも慣れないうちは命懸けである。あり得ないほどの荷物をバイクの前後に載せているかと思えば,それが人間のときもある。平然と一台のバイクに5人の大人子どもが重なり,もはやだれが運転手か分からない。日本ではありえないいいものを見せてもらったという意味で曲芸のようなものである。交通ルールがないような運転,かつ超高密度な路上,さぞかし事故も多そうだが,そこはみな慣れたものである。絶妙なスピードとブレーキのタイミング。あわやというところで危険をかわす。最後には私たちも慣れたもので,相手に合わせるのではなく,自分のタイミングで道路を渡る。そうすれば自然と向こうからスピードを落としてくれるのである。クラクションも必要ない。極端な話,目をつぶったまま道路を歩行しても彼らに任せておけば大丈夫という安心感さえやがて生まれてくるのだから不思議である。