1873年(明治6年)のことである。日本から岩倉具視を代表とする遣欧使節団がパリを訪れる。その子細は久米邦武による『米欧回覧実記』に記されているが,久米がみた凱旋門やパリの姿と我々がみるパリの姿は基本的にはそれほど違いはなさそうである。
「100年ほど前までは,この町の街路は狭苦しく,建物も大小入り混じって,きれいなところと醜い部分が錯綜していた。ところがナポレオン一世が絶大な軍事力によって各国に勝利して奪って来た富を使ってこの市の美観を整えようと考えた。小さな家々を取り壊し,ところによっては大きな建物も取り除いた上,宮殿の前から市城の北の外れまで約5キロにわたる地域を再開発し,白い石を用いた高層ビルを立て並べて,凱旋門を中心として四方に十二本の大通りを引いた。その中でも凱旋門の正面を貫く通りは,幅120メートル,これを名づけてシャンゼリゼ大通りと呼んでおり,直線でコンコルド広場に達している。道の左右には二筋の並木を植えてあり,人々は木々の涼しい陰の下を歩んでいる。夜は道路傍にガス灯が輝やく。その光は燦然とした珠玉を連ねたようで,地平線まで点々と続いている。」1872年12月17日『米欧回覧実記』
凱旋門とコンコルド広場,2つのランドマークを結ぶパリきっての目抜き通りがシャンゼリゼ大通り。歌のごとく「おー,シャンゼリゼー」と気分が高まる。シャンゼリゼはアヴェニューである。マロニエの並木道。「マロニエ」は「マロンの木」であるが,栗ではなくトチである。毒があるので日本のイチョウ並木の銀杏のようにもって帰って食べるわけにはいかない。
このマロニエの並木道を行ったり来たり,シャンゼリゼをスーツ姿にボルサリーノ帽。映画『勝手にしやがれ』(1960)でジャン=ポール=ベルモンドが,Tシャツにサブリナパンツ姿のジーン=セバーグにからみながら歩いたのは凱旋門とジョルジュサンク駅の間であったと思う。「ジョルジュサンクまで一緒に」というような台詞があったのを覚えている。ジャン=ポール=ベルモンドは,ハンフリー=ボガートに憧れる若者であるが,いわゆるチンピラ役である。
『勝手にしやがれ』の監督ジャン=リュック=ゴダールは,この映画の原案を書いたフランソワ=トリュフォーとともに,ヌーヴェルバーグの旗手といわれる。「ヌーヴェルバーグ」はフランス語で「新しい波」,「ニューウエーブ」の意味。1950年代末から60年代にかけてフランスの若手映画監督たちが新しい撮影技術,自由なスタイルの内容,解釈を取り入れ,当時の若者の共感を得た。
トリュフォーの作品では『大人は判ってくれない』(1959)が痛快であった。12歳,日本でいうと小学6年生のわんぱく盛りの男の子が主人公の映画である。何が痛快かだって,学校をサボった理由に先生に「母が死んだから」と言い訳する。もちろん嘘であるが,私も子どものころは何かをサボる理由に親族のだれかを死なせたことが多々あった。同じような言い訳を度々使っているうちに,仕舞いにはだれを死んだことにしたかも覚えておらず,もう死なす親族がいなくなってしまっていた。本当なら私はとっくに天涯孤独の身のはずだった。甚だ不謹慎だが,子どもの馬鹿げた言い訳は所も時代も変わらないものだと,その視点に親近感を感じた。
ヌーヴェルバーグの撮影術の1つにロケ撮影がある。撮影所から飛び出して撮影し,同時に台詞も要れる。いわゆるロケだから一般人が自然にエキストラとなる。アドリブも必要となる。周囲の雑音も入り込むことになるので,それがリアリティを生み出す。かつてパリで活躍した作曲家エリック=サティは現実の生活に鳴り響く雑音を作曲に採用した。サイレン,タイプライター,ピストルの音まで。こういう発想で新感覚のものを作り出すフランス人の感性は,例えば型どおりのお堅いお国柄のドイツには真似できないものがある。
『勝手にしやがれ』でゴダールはジーン=セバーグを主演女優として起用した。彼女の気取らない装いが観客の目を引いた。彼女の代名詞,超ショートカットのヘアスタイルは,彼女が以前出演した映画の役名から名づけ慣れ一世を風靡した。セシルカットである。(フランソワ=サガン原作の『悲しみよこんにちは』(1958))