半蔵門から靖国神社
最高裁判所を過ぎ,国立劇場を過ぎると皇居側に旧江戸城半蔵門が見える。大手門の正反対の位置にあるこの門は,徳川家康に仕えた服部半蔵正成に因むという。服部半蔵正成は,伊賀国忍者の頭領として大衆文化において絶大な人気を誇る。祖先はあるいはそのような一族であったかも知れないが,本人は家康の岡崎時代からの家臣であったことから出自は三河国(愛知県)である。戦場では先陣を切り,家康窮地に至ってはその命を救った。中でも本能寺の変に際して,堺にあった家康が,本国三河へ命からがら逃げかえった伊賀越えにおいては甲賀・伊賀衆を味方につけ,無事護衛した功績は大きく,家康江戸入場後はその警備を任され,後世までこの門に名を残した。
半蔵門,イギリス大使館と進むとこの辺りから千鳥ヶ淵である。第二次世界大戦の戦没者墓苑を中心として桜の名所が広がる。そのまま堀を北上すると旧江戸城北端の田安門に出る。田安門は田安徳川家に由来する。田安徳川家は御三家(紀伊・尾張・水戸)に次ぐ格付けで,御三卿(田安・一橋・清水)の1つとされ,将軍後嗣を出す資格があった。実際11代家斉と15代慶喜は一橋家から出ている。
田安門に向かい合って北側は靖国神社である。大鳥居を潜って本殿へと向かうと途中,大村益次郎の銅像に出くわす。堂々たる出で立ちである。
大村益次郎(村田蔵六)は,長州(山口)の町医の子として生まれ,大阪の緒方洪庵の適塾で蘭学を学んだ。幕末の混乱期,藩に戻り奇兵隊で軍制の改革を任されるとその手腕を発揮,戊辰戦争では明治新政府軍の作戦・指揮をとった。
大事が成った後は,兵部大輔(ひょうぶたいふ)に就任し,フランス式軍制を導入し,近代陸軍の創設に尽力した。「日本陸軍の父」といってよい存在である。長州は大村を得て,時代の勝者となったが,以後陸軍は長州閥の牙城となり,その気風を色濃く反映させていく。昭和の戦時,陸軍に大村のような人物が1人でもいたならと残念でならない。そう思わせる人物である。
大村益次郎像が靖国神社に立つ理由は,靖国神社が戊辰戦争の戦没者を祀る,前身の「東京招魂社」の建設に尽力したからである。
※奇兵隊
高杉晋作らによって長州藩で創設された武士・庶民からなる混成部隊。江戸幕府による長州征伐では幕府軍を圧倒。
※戊辰戦争
1868~1869年。旧幕府軍と明治新政府軍との内戦。大村が薩摩・長州連合軍を指揮し,倒幕に功績を残した。