You ain't heard nothing yet!

ある社会科講師の旅の回想録

You ain't heard nothing yet!(お楽しみはこれからだ!)

ダッハウ~ドイツからイタリアへ⑭~

 ミュンヘン中央駅に戻り,午後はダッハウへ向う。Sバーン(S2線)とよばれる近郊ローカル線にのる。ダッハウ駅まで約20分。駅前のバス乗り場からバスにのって約10分。ダッハウ強制収容所に着く。英語表記で「concentration camp」と書かれている。「強制収容所」の英訳である。
 ダッハウ強制収容所は1933年,ナチスが政権を掌握して最初に設立した強制収容所であり,敗戦まで機能していた。のちにヨーロッパ各地の収容所のモデルとなり,もちろんポーランドのアウシュヴィッツもその1つである。ここで看守をしていたルドルフ=ヘス(ナチ副総統のルドルフ=ヘスとは同姓同名の別人)はのちにアウシュヴィッツの所長となる。
 収容所の敷地には西の鉄門から入る。門にはナチスの強制収容所の有名な標語「ARBEIT MACHT FREI(働けば自由になる)」が目に入る。私が訪れた30年近く前は人もまばらで,その日は曇天の3月,余計に寒々としていた。ガス室も死体焼却室も備えているが,ガス室は実際に使用されたことはなかったという。収容者は主にユダヤ人であったが,他にヒトラー暗殺を企てたゲオルグ=エルザー(前出)などの政治犯,共産主義者,レジスタンスらあわせて20万人。3万人以上がこの収容所で命を落とした。
 収容されたユダヤ人にはアウシュヴィッツからダッハウに移送された人もいた。その収監体験を『夜と霧』に著したヴィクトル=フランクルもその一人である。被収容者が何に絶望したかだけでなく,何に希望を見出したかを精神科医の目で綴ったこの記録は一読に値する。後半には収容所から解放されたのちの被収容者の心理にも迫っているのがすごい。フランクルは解放直後の様子をこのように記している。

 自由という言葉は,何年ものあいだ,憧れの夢の中ですっかり手垢がつき,概念として色あせてしまっていた。そして現実に目の当たりにしたとき,霧散してしまったのだ

 わたしたちは,まさにうれしいということはどういうことか,忘れていた。それは,もう一度学びなおさなければならないなにかになってしまっていた。(『夜と霧』新版 池田香代子訳 みすず書房 p148-149)

 

 さらに収容所を解放された者が,もとの生活圏で世間と接触したとき,どこにいっても「なんにも知らなかったもんで・・・」とか「こっちも大変だったんですよ」といった決まり文句を聞かされ,失意に陥る。フランクルは「新たに手に入れた自由の中で運命から手渡された失意は,のりこえるのがきわめて困難な体験であって,精神医学の見地からも,これを克服するのは容易なことではない。」といい,続けて「そうは言っても,精神医をめげさせることはできない。その反対に,奮い立たせる。ここに使命感を呼び覚ますものがある。」と自らを鼓舞している姿に感銘をうける。

 

 ダッハウの強制収容所の解放にはアメリカ日系人の部隊,いわゆる442部隊が活躍した。このこともダッハウを訪ねたかった理由の一つであった。日系アメリカ人が第二次世界大戦にどのように関わったかについて,中学のころ,山崎豊子の『二つの祖国』で知ったが,その時に調べた442部隊がヨーロッパ戦線に投入されたことは知っていた。

 

 

 しかしダッハウ解放に携わったことは知らず,何とこの旅に出た前年1992年に公にされたところだった。そのことを何かのニュースで耳にし,子どものころの記憶が重なったとき,ダッハウ訪問を心に決めた。しかしというかやはりというか442部隊とダッハウ解放についての資料を当時は見つけることはできなかった。今はどうだろう?

 そのかわりといっては何だが,ダッハウの悲劇は収容所解放後も続いたことを知る。今度はアメリカ軍が収容所職員や戦争捕虜に対して報復的残虐行為がおこなわれている。一つは戦争の敵に対する復讐,そして強制収容所での非人道的行為に対する怒りと正義感であった。さらには被収容者たちによる復讐(拷問・惨殺)もあったという。ドイツ人だけでなく,収容所内でドイツ人に協力したユダヤ人も同じ目に遭った。彼らは「カポー」とよばれ,その実態は『夜と霧』にも描かれている。
 ダッハウをはじめ,ドイツ国内の数々の収容所を解放し,バイエルン地方の占領軍司令官となったのは,映画『パットン大戦車軍団』(1970)で知られる,ジョージ=パットン将軍であった。アメリカ人好みの英雄的な軍人である。そのパットンであったと思うが,彼がワイマール近郊の強制収容所を解放したとき,その惨状を目にして激怒したといわれる。彼は死体の山と骨と皮だけで生き残った被収容者の姿をワイマール市民にみせた。市民たちは「私たちは知らなかったんだ」といい,それに答えて収容所の生還者は「いや,あなたたちは知っていた」と答えたそうだ。この話は先に話した『夜と霧』の中で生還者がもとの場所で生活をはじめたときの二者の関係に通じる。
 どうやらダッハウのドイツ人捕虜虐殺事件は司令官であるパットンがもみ消そうとしたらしい。軍の不祥事を隠蔽するためか,自己の保身か,はたまたその英雄的正義感からかはわからない。日系人部隊は関わっていなかったようだが,たぶん1992年までダッハウ解放の功労者であった442部隊の功績が隠されていたのは,その辺の事情と関係があるのかもしれない。


 ユダヤ人,ドイツ人,アメリカ人,人は一個人として存在する以上,すべてを超えて普遍的な立場でこの地でおこったことを評価するのは難しい。「二度と繰り返さない」,ダッハウの記念碑にヘブライ語,フランス語,英語,ドイツ語,ロシア語で書かれた言葉であるが,現在から理想をいうのは簡単だが,自分がその時,どの国のどの民族としてどの立場で生きたかでやはり同じことをしていたのではないか。だからこそフランクルが『夜と霧』で記した「人間とは何か」の問い,「人間とはガス室を発明した存在だ。」を肝に銘じておかなければならない。
 各国入れ乱れた恩讐の解決策としてドイツ人は,過去の責任をすべてヒトラーとナチスにかぶせた。しかし未来に対して逃げることはしなかった。ドイツ人はひたすらヒトラーを生み出した罪の謝罪と賠償を引き受けた。そしてそのことによってヨーロッパや国際社会において信頼と確固たる地位を築き上げた。
 「許すということは難しいが,もし許すとなったら限度はない。ここまでは許すが,ここから先は許せないということがあれば,それは最初から許してはいないのだ」(山本周五郎「ちくしょう谷」より)これは裏を返せば許しを請う側にもいえるのである。ダッハウやその他ドイツ国内で公開されている強制収容所は,ドイツ人の覚悟の象徴なのである。
 さて日本はどうかというと,日本にも過去の負の遺産はたくさんあるはずである。特に被害者としての跡地や記念碑は大きく扱われているが,加害者としてのものはどうだろう。なかなか大々的に公開されているものにはピンとこない。「あるにはありますよ。」とだれかがいうかもしれない。確かに探せばあるのだろう。
 例えば記念碑は東京渋谷の公園にあるものだが,一見なんの記念碑かわからない。碑の裏側にまわってやっとそれがわかる。かつてA級戦犯が拘留されていた巣鴨刑務所のあと地であることが説明されている。A級戦犯の是非はともかく,ドイツとのこの違いは何なのか。


 駅までのバスを待つ間,一人の日本人男性と会った。収容所の中ではみかけなかった。ミュンヘンに泊まっているというので,ミュンヘン駅まで一緒することになった。東京の某私学の法学部で,この春に4年生ということは卒業旅行でもなさそうだった。当時,日本人のヨーロッパ一人旅行は珍しいというほどではなかったが,日本人同士が郊外で偶然出会う確率も低かった。
 ダッハウ駅からミュンヘン駅までの短い間,列車のコンパートメントに一人の若いアジア系の女性が座っていた。一見して日本人と見間違ってしまいそうな顔立ちであったため,連れ合いは私に話しかけたその気さくさで彼女に日本語で話しかけた。
 彼女は照れくさそうな,そして何か困ったような笑顔でこちらを見たが返事が返ってこない。やはり三人目の日本人ツーリストではなかったようだ。二人ともドイツ語会話はできないので,今度は英語で話しかけてみた。「旅行中か?」,「いいえ,留学生です。」と今度は通じたようだ。
 彼女は台湾人で,このあたりの大学に勉強にきているとのことであった。もちろん女性に年齢を聞くのはヤボというものであったが,我々二人よりさらに若そうなのに,当然英語はおろかドイツ語もできるはずで,断然我々より優秀である。
 三人で強制収容所についていくつか話をしたことは覚えているが,中身についてはもう定かではない。ただ台湾人が日本人についてどう思っているのかを聞きたくて聞けなかったことは覚えている。台湾はかつて日本の統治下にあった。しかし台湾は親日国であるという一般論は知っていたが,本当なのか。答えを聞いてみたかったが,やめておくことにした。そのかわり「ドイツのソーセージはおいしいですね。」というと「そうですね。」と彼女は答えた。
 私は駅に残りアウグスブルクへ帰る列車のホームを掲示板で確認し,後の二人はそれぞれ別の方向へ駅を後にした。あしたからはスイスである。